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礼拝メッセージより
説教題:「共にいる」 2001年12月23日 聖書:マタイによる福音書 1章18-25節
人は皆だれも、それなりにいろいろと予定を立てている。この時にこれをして、この時間にはこれをして、その後にはこれをして、と考えながら生きている。すぐ先のことであれば具体的に決めているときもあれば、遠い将来のことのように漠然としているときもある。
どこかの有名私立中学を受験するとか言う小学生が、将来何になりたいかと聞かれて、みんな弁護士だとか、大蔵省に入るとかと言うのを聞いたことがある。ところがなかなかその予定どおりにいかないのが人生である。明日のことだって、今日のことだって予定どおりにいかないことがある。漠然と考えていた夢が実現しないことくらいであればまだどうってこともないが、当然そうなるであろうと予定していたことが狂うと大変だ。
聖書の中にも予定が狂ってしまった人物がいる。今日の聖書に出てくるヨセフがそうだ。クリスマスの主役はイエスとマリヤということに相場が決まっている。それに付け足しのようにでてくるのがヨセフ。イエスの生涯の最初にだけ現れ、たちまち消えてしまう人物。イエスは戸籍上はヨセフの子ということになる。しかし血筋から言うとイエスは彼の子ではない。そしてイエスと言う名前もヨセフが付けたものではない。このような不条理を背負わされた男がヨセフ。
ヨセフはマリヤと婚約していた。婚約といっても当時は法的には結婚と同じ拘束力があって、婚約中でも夫とか妻と呼ばれていたそうだ。しかし結婚するまでは両親の家に住んでいたし、婚約者同士の性的な関係も許されてはいなかったそうだ。申命記によると、婚約中の姦淫の罪も石打による死刑となっているそうだが、当時はすでに実践されてはいなかったという人もいる。実際どうであったかは定かではない。
とにかくやがて正式に結婚を控えているという幸福の絶頂にあったのではないかと思う。きっと新しい家庭、つつましいマイホームを夢見ていたであろう。多分甘い生活を夢見ていた、楽しい新婚生活を予定していたであろうヨセフを奈落の底につきおとす事件が起こる。それは許嫁のマリヤが妊娠してしまうということだった。全く予定外の全く創造もしていなかったであろう出来事が起こってしまったのだ。
ヨセフはまじめなユダヤ教徒だったようだ。ユダヤ教の会堂(教会)では子どもの教育もしていた。ヨセフも小さいころから聖書を学んでおり、律法もよく知っていたであろう。そしてその律法には姦淫の罪は石打ちの刑にあたるということももちろん知っていただろう。
マリヤがどうしてそんなことになってしまったのか、ヨセフはさまざまな思いに、疑惑に苦しめられたに違いない。もし、このことを表沙汰にしたとすればマリヤは石打ちの刑に処せられるかもしれない。そこまでいかなくても今後一生みんなから白い目で見られてしまうに違いない。しかしだからと言ってそのマリヤをそのまま自分の妻にすることもできない。ここでヨセフは悩む。
婚約の段階での離縁は、正式に結婚した後に比べれば比較的簡単であったそうだ。法廷に持ち込むことなく、離縁状を渡したことを証明する二人の証人がいれば良かった。あるいは妻の罪を公にして問い詰めることもできたけれども、いずれにしても、こうした手続きをとらない婚約破棄は許されなかった。つまり聖書にあるようにひそかに決して誰にも知られずに何もなかったことにすることはできなかったらしい。
愛し合い、将来を約束しあったマリヤを死に追いやることなどできない、死刑にならなくとも社会のさらしものにするようなこともしたくない、しかしマリヤは悪いことをしたのだ、罪をおかしたのだ、それをそのままにして妻にすることもできない、かといってこのまま見放してしまうこともできない、ヨセフは自分の持っている、そして小さいときから聞いてきたであろう律法の求める正しさというものと、マリヤへの愛との相反する二つの思いに悩み苦しんだことだろう。そこで彼の選んだ方法はひそかに二人の証人の前で離縁状と手切れ金を与えて離縁しようとすることだったようだ。確かにこの段階ではあまり公にしないで婚約を破棄することもできるかもしれない。しかしやがてはマリヤに何が起こったかなんてことはすぐに知れ渡ってしまうはずだ。
ヨセフにとってはそれは最も正しい方法であったのだろう。律法に照らし合わしても、何の落ち度もなかった。だれからも非難されることもなかった。そうすることのよってヨセフは「姦淫の罪を犯したという烙印を押されたマリヤ」と手が切れるはずであった。
しかしマリヤはどうなるのか。マリヤは離縁されたあと大きなお腹をかかえてどこへ行くのか。生まれた子は父のない子として生涯その負い目を負って生きていかねばならない。マリヤは悪いことをしたのだからそれは当然受けねばならない罰だ、と言ってしまうこともできる。いくらなんでもそんな罪人の面倒までは見れない、そこまでの責任は持てん、と言われればそれ以上ヨセフにどうしろということはできそうもない。
ヨセフはずっと正しく生きてきたのだろう。決められたとおり、筋を通して生きてきていたのだろう。「ヨセフは正しい人だった」と聖書にも書いている。そして密かに離縁する、という正しい選択をしようとしている。律法的、法律的には正しかった。しかしその正しさはマリヤを一人にする、マリヤを窮地に追いやる正しさでしかなかったのではないか。たとえマリヤが本当に罪を犯していたとしてもヨセフの正しさは自分を守り、人の命を奪うこともある、という正しさでしかないのではないか。
「理屈は一番低い真理です。」(八木重吉)。理屈にあっていればそれは正しいことではある。でもそれは、俺は正しいことをしているんだから文句言うなと威張れるような正しさではなく、一番低い正しさ、一番低い真理なのだろう。
主の使いは「恐れるな」という。この主の使いの言葉がヨセフを新しい世界へと導く。人は自分の持つ正しさで自分を守る、そして周りの人間を断罪し裁く。自分が自分の正しさにしがみつくことで、自分から人を離れさせてしまうことにもなりかねない。
愛するとは、その自分の正しさという陣地から出ていくことではないかと思う。自分が正しい側にしがみついていたならば、本当には人を愛することはできないのかも。自分が正しい側から出ていくことが人を愛することではないか。
そのためには勇気もいるし、そこには恐れもある、世間の非難を受けることになるかもしれない。正しい世界にいる者からは、あいつは何をやっているのか、ということになるのかもしれない。それまで通り、いままで通り、正しい世界にいたほうがきっと楽だったのだろう。ヨセフにとっても、ここでマリアと縁を切っておいた方が楽だっただろう。その後に何が起こるか分からない面倒なことに関わらずにすんだであろう。周りから何を言われるか、どんな風に扱われるかという心配からも解放されるであろう。
しかしそんなヨセフに対して天使は、恐れるな、と告げる。恐れず出ていけ、と告げる。もしマリヤが自分の正しさの外側にいるならば、そこに出ていきなさい、と告げる。
ヨセフには出ていくことにブレーキをかけるものがあった。マリヤへの疑惑、不可解な訳のわからない尋常でない出来事、正しい人への思惑、今までの生き方への執着、それらを乗り越えていくことは容易ではなかっただろう。ヨセフだって、自分の正しさを乗り越えてマリヤとずっと一緒にいたいという思いもきっとあったのだろう。そんなに簡単に別れられはしなかっただろう。しかしそれよりもきっと自分の正しさの壁は高かったのだ。
しかしその時まではできなかったヨセフも、神の「恐れるな」ということばによって乗り越えていったのではないか。神が乗り越えさせて下さった。神が一緒に乗り越えてくれたということなんではないか。
イエスはインマヌエル、神はわれわれと共にいると呼ばれると言われる。神が共にいたからこそ、ヨセフはこのわけのわからない事態を受け止めることができた。正しい世界の外に出ることができた。マリヤを受け入れることができた。それよりもなによりも、神自身が正しい側にじっとしていることをやめたから、正しい所にいて、それはだめだ、だめだということをやめて、自分から罪の世界に来てくださったからこそ、罪の世界にいる私たちのところに来てくださった。その神が共にいてくれることがわかったから、ヨセフもマリアの所へ出ていくことができたのではないか。そしてマリヤを大事にするという思いを貫くことができたのだろう。
神は神であることに、神の居場所に固執することをせずに人となってイエス・キリストとしてこの世界に来てくれた。「(キリスト讃歌)フィリピ2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」。神は壁を乗り越えて私たちのところへ来られた。そして間違いだらけの、罪だらけの私たちと共にいて下さっている。
ヨセフはマリヤと一緒にいることを選択した。けれどもそこはもちろん平穏無事な世界ではなかっただろう。いろいろな思いに揺れる人生が待っていたに違いない。しかし、神はそのヨセフと共におられた。神はいろんな思いに揺れるヨセフと共に揺れて下さったのだ。神が共にいるとはそういうことなのではないか、と思う。神が共にいるということは、全く揺れなくなると言うことではなく、私たちがどれほど揺れようともいっしょに揺れてくれるということなのではないかと思う。
昔のバプテスト誌にある牧師のこんな話が載っていた。
若い夫婦で二人とも小学校の教師をしている人の話だったが、二人に子どもができたがその子は妊娠しているときに重い障害を持っていることが分かり、医者から中絶を勧められた。けれども、どうしても決断できず、夫がその教会の幼稚園の卒園生だったこともありこの牧師のところに相談に来た。その時にはすでに産む決心をしている様子だったそうだ。そして子どもを産んだ。その子は医者の診断どおり、自分の力では生きることができず、28日間の生涯を閉じた。その後、夫婦は礼拝に出席するようになった。2年後の永眠者記念のときにその婦人がこう語った。「今わたしの体内に新しい命が宿っています。もちろんうれしさがありますが、同時にはじめの子のことが頭をよぎり、心配の余り『どうか5体満足で産まれてきて』と願っている自分に気づき、はっとします。そしてそう願っていることをはじめの子に申し訳ないと思うのです。今私はこの両方の思いの間で揺れています。」この牧師はこれに対してこう結んでいます。「私たちはこの真実な言葉の前で、気休めや分かったような理屈で慰めることをやめて、この夫婦の『心の揺れ』と共に私たちも揺れさせていただこうと決意したのでした。
神が共にいる、ということは私たちが泣いているときには一緒に泣いて、笑っているときには一緒に笑って、悩んでいるときにはいっしょに悩んで、揺れるときに一緒に揺れて、苦しんでいるときには一緒に苦しんでくれているということなのではないか、と思う。
インマヌエル、神、我らと共にいます、それは私たちが神を見つけ、私たちがしっかりと神をつかんでいるからそう言えるのではない。神が私たちのところへわざわざ来てくださったから、そして神が私たちのことをしっかりとつかんでくれているから言えるのだろう。
イエスは私たちのところへ来てくれた。すぐそばにいてくれている。罪にどっぷりつかった、だめな、だらしない間違いだらけの私たちのとこまで来てくれた。そして私たちをしっかりと捕らえつかんでくれている。そうやって私たちと共にいて下さっている。そして私たちとどこまでも共にいて、いっしょに揺れてくれている。