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礼拝メッセージより
説教題:「どこに」 2001年2月4日 聖書:創世記 4章1-16節
兄弟
兄弟の争い。教会では兄弟、姉妹なんて言っているが、もしかしてそれって争うってこと?
兄弟って言っても随分と違うアベルとカインである。世の兄弟も大なり小なり違っている。似ていることもあるが、違っていることも多い。違っていて当たり前。一卵性双生児だって随分違うそうだから。
献げ物
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となったという。二人は共に神に献げ物をしたという。主のもとに持ってきたということは、神はアダムとエバをエデンの園から追い出したのに、その神自身がエデンの外にいる人間のところへと出てきたということだろうか。悪いコトしたから出て行け、と言っておいて、放っておけなくて心配になって後から自分もそこへ出ていくようなものなのか。
それはさておき、二人とも主に献げ物を持ってきた。カインは土の実りを献げ物とした。アベルは羊の群の中から肥えた初子を献げ物にしたという。
主はアベルの献げ物には目を留めたのに、カインの献げ物には目を留めなかったというのだ。なんというひどいことをするのだろうと思う。いったい何なのか。なんでそんな差別をするのだと思ってしまう。
カインは激しく怒って顔を伏せたという。そりゃ怒るよ。せっかく献げ物を持ってきたのに知らん顔をされたら怒る。
どこかに旅行してお土産を買ってきた時に、そのお土産を受け取ってくれなかったらどんなに悲しいだろうか。ありがとう、って喜んで受け取ってくれたらいいけど、こんなことしなくていいのに、そんなことされるいわれはない、なんてことを言われるだけでも寂しくなってしまう。でも案外自分が貰うときにはそう言ってしまうことが多いけど。申し訳ない、気の毒、すいません、、。
なんで神がカインの献げ物に目を留めなかったのかということはわからない。理由も書いてない。アベルは肥えた初子だったけど、カインは良い物じゃなかったからじゃないか、なんていう説明を聞くこともあるけれどもそれも一つの想像に過ぎないし、少なくともそうだとは聖書にも書いてない。理由はここには出てこないのだ。神のみぞ知る、ってとこだ。人間に解ることはただ神がそうしたのだ、ということだけだ。人間にはその理由はわからない。
カインにもその理由が解らなかったのだろう。理由が解らないからこそカインは怒ったに違いない。理由が解っていたなら、例えば弟は一番に良い物をささげたのに自分は一番ではないものをささげたからだ、という理由ならばカインだって納得出来ただろう。納得できる理由が見あたらなかった、なのに神は自分の献げ物には目を留めず、弟の献げ物にだけ目を留めた、だからカインは怒ってしまったのだ。
嫉妬
理由もなくどうして弟だけなのだ、という嫉妬がカインの心に芽生えたようだ。そう思うのも尤もだと思うのは私だけだろうか。そりゃ怒るよなあ。
しかし主は「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのかもしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」なんて言うのだ。それはないよおとっつぁん、って感じ。アベルの献げ物にだけ目を留めておいて、カインの献げ物には目もくれなかったのに、その上この言いぐさはないんじゃないの、あんまりだよと思ってしまう。
問いかけ
なぜ、どうして、どういうことだ、という問いかけをできるということ、その問いかけをぶつける相手がいるということ、それはとても幸せなことだ。
人生は納得できないこと、理解できないこと、不条理が一杯だ。正直者が馬鹿を見ると思えるようなことも現実にはいっぱいある。どうしてあんないい人が苦しむのか、どうしてこんな人が早く死ぬのか、あるいは逆にどうしてあんな奴がいい思いをするのか、どうしてあんな奴がいい地位にいるのか、なんてことがいろいろある。そしてどうして自分はこんなにしんどい思いをしなければならないのか、どうして自分がこんな病気にならないといけないのか、それは切実な問いかけだ。どうして自分が、自分だけがこんな辛い人生を歩まねばならないのか、それはとても重い疑問である。
しかしその疑問を、問いかけを自分で抱え込むしかなければ、ぶつけるところがないとしたらそれはとてつもなく大変なことだろう。苦しみが自分の中で渦巻いてしまうようなものかもしれない。あるいはいろんな憎しみや嫉妬や憎悪が自分の中でぐるぐると渦巻いているようなものかもしれない。実際、憎らしい気持ちは自分だけで考えている間にどんどんどんどん大きくなっていく。
語りかけ
怒るカインに向かって主は語りかけている。「どうして怒るのか、、、」かなりひどい言い方だなあとは思うけれども、とにかく語りかけている。しかしカインはそれに対して答えることはしない。怒りを内に秘めたまま、その怒りをひとかけれも外にこぼすまいとしているということでもあるかのように無言のままである。そしてアベルを野原に連れ出して殺してしまう。
本来カインの怒りの対象は神に対してであったはずなのに、怒りの矛先は弟に向いていってついには弟を殺してしまう。兄弟に対して、また兄弟だけではなく、誰かに対して憎しみを持つこと、嫉妬すること、それはやがて殺人へとつながっていく第一歩であるということらしい。
そうするとまた神はカインに語りかける。「お前の弟アベルはどこにいるのか」神はカインがアベルを殺したことをすでに知っている。なのに弟はどこにいるのか、と聞くのだ。
本質
カインの怒りの根本は神が自分の献げ物に目を留めないで弟の献げ物に目を留めたということにあったはずだ。しかし結局は最後までその根本的な問題に対する問いかけをすることなく弟を殺してしまう。そしてさらにその殺人を隠そうとする。
弟を殺しても根本的な問題、何故主が献げ物に目を留めなかったのかということは解決するはずもないのに、そうしないではいられないほどに怒りは大きくなってしまっていたのだろうと思う。
そしてこのカインの姿は人類すべての姿ということでもあるのだろうと思う。誰かがちょっといい思いをしていると、なんだかその人のちょっとしたことが気に入らないと思えてくる。そうすると、だんだんとその人そのものが嫌いになり、その人のすることが全部嫌になり、やがて憎らしくなるなんてことがある。そうするといつしかその人が今度は何をやらかすか、今度はどんなおかしなことをするか、なんてことに注目しているなんてことがある。そしてどんどんとその人を悪者に仕立て上げて、どんどんと憎しみが増していく。
何故
不条理な世界である。そしてそのことに対してなぜなのか、どうしてなのかと怒り、嫉妬する、それが私たちの現実だ。
それもこれも神がしたことなのだ、と納得できればいい。納得できる事ならば大した問題はない。しかし納得できない事が自分の身に起こってくるとどうしてだ、何故なのだ、という思いに捕らわれてしまう。神を信じているのにどうしてこんなことになるのだ、ということを思うこともあるだろう。
しばしば、間一髪助かったとか、九死に一生を得た、なんてことを経験することで、神様が守ってくれたのだと喜ぶ。しかし現実はそんなに都合のいいことばかりが起こるわけではない。間一髪助からなかった時、たまたま事故に遭い死んだとき、珍しい難病になって治療する方法が見つからない、なんてこともある。そうなってしまったときはどうするのだろうか。そんな時は、どうしてなのだ、どうしてこんなことになるのだ、という思いに私たちを支配されてしまうのではないのだろうか。
カインはそんな思いに捕らわれたままだったようだ。そしてその思いを自分で抱えたまま、その思いを兄弟に対する憎しみに変えていった。どうしてか、なぜなのか、それを神に問いかけることをしなかった。疑問や不信を神にぶつけることをしないで、憎しみを優遇されている弟にぶつけてしまったのだ。問いかけるべき神に問うということをしなかったので、その疑問や不信が弟に対する憎しみと嫉妬へと形を変えて出ていってしまったのではないかと思う。
何とも悲しい物語である。
弟殺しの罰を受ける、ということを神に聞かされて初めてカインは自分のしたことの大変さに気づいたようだ。重すぎて追いきれないほどの罪であることを、そして自分が神から離れてしまうことで命が危険にさらされることを自覚する。
何故を神に問うこと、それが大事なことなのだろう。答えがすぐに返ってくるとは限らない。ずっと答えがないママなのかも知れない。しかし何故なのか、どうしてなのか、それを神に問い続けること、それが大事なことなのだろう。神に問いかけることで、私たちも殺人から免れることが出来るのだろう。憎悪や嫉妬を少しでも軽くすることが出来るのだと思う。
いつも共にいてくれている神にいつも問いかけつつ、神の前で私たちは出会うのだ。神との関係を持ちつつ隣人との関係を持つ、神の前に立ちつつ隣人と会う、そこに私たちが罪から逃れる道があるようだ。問いかけるべき神を抜きにして、人間関係を持つところにひずみが生じてくるようだ。
神を抜きにして、神の前から離れて隣人に対する時、そこに罪が待ちかまえているということだろう。
神の前に、共に罪人として立つこと、それが私たちのあるべき姿なのだろうと思う。
詩編133編「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」嫉妬し憎み責め合うものは共に座っていることなどできない。罪人同士として赦し、いたわり、愛し合うこと、そこで初めて共に座ることができるように思う。
守り
殺人を犯したカインにも、神は語りかけ続けるのだ。弟はどこにいるのだ、あなたは何をしたのだ、と問いかけている。
神はカインが地上をさまよい、さすらう者となるという。しかし神は、だれもカインを撃つことのないようにしるしをつけられたというのだ。怒り、嫉妬に狂い弟を殺してしまったカインを守るというのだ。
神は追放したアダムとエバを追ってエデンの園の外へ出てきた。そしてまた神の守りは地上をさまようカインの住む、エデンの東へと延びていくことになった。
罪を犯した者にも尚も語りかける神の姿がある。弟はどこにいるのか、何をしたのかと神は問いかけ続けておられる。間違い、失敗をする、殺人をする私たちをも尚も見捨てない、私たち自身に間違いを気付かせようとする神、しかし尚も声をかけ、関わり続けようとする神の姿がある。
弟はどこにいるのか、それはカインにとってビクッとする、恐ろしいひとことでもあったことだろう。しかしそこからカインの新しい一歩が始まった。
私たちも神のそんな声を聞いていきたい。そして神と共に、そして隣人と共に生きていきたいと思う。