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礼拝メッセージより
説教題:「神と共に」 2001年2月11日 聖書:創世記 6章5-22節
悪
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」創世記1章で人を造ったときに神はそう言って祝福した。ところが人はその神に従うばかりではなく、神の意向からそれてしまうことばかりを行ってしまうものとなってしまっている。それが創世記が最初から繰り返し語る人間の有り様であるようだ。
自分の造ったものが思い通りにならない、自分の願わないことばかりをするようになってしまっている。「地上に悪が増し、悪いことばかりを心に思い計っている」とある。神はここで人を造ったことを後悔し、心を痛められた、というのだ。
造ったけれど出来損ないだったので処分してしまおうということだろうか。自分の造ったものがとんでもないことばかりするようだと、壊したくもなる気持ちも分かる気はする。
洪水
11-12節には今度は、「この地は神の前に堕落し、不法に道いていた。神はごらんになった。見よ、それは堕落し、すべて肉なるものはこの地で堕落の道を歩んでいた」と言われている。神はその地上の堕落を一掃するために洪水を起こすことにした、というのだ。しかしノアとその一家だけは救われることになった。そのためにノアに箱舟を造るように命じた。もともとの言葉はただ単に箱という意味だそうだ。前に進む必要のない、浮かんでいればいい箱ということだ。寸法は、長さが135m、幅が22.5m、高さが13.5m位だろう。結構な大きさになる。いきなりこんなものを造れと言われるとちょっと大変なことだ。
何かの映画でノアがこの箱舟を造るシーンがあった。そこでは周りの者たちが飲めや歌えで楽しんでいる最中にも、ノアの一家が箱舟を造るというのがあった。周りの者たちから、そんなもの造ってどうするのだ、こんな山の中でそんなもの一体何に使うのだ、なんて罵声を浴びながら造っていたように記憶している。
しかしノアはすべて神が命じられたとおりに果たした、という。いろんな罵声があったかもしれない、あんな訳の分からないものを造ってノアはおかしくなってしまったんじゃないか、なんて言われるような状況だ。しかしノアは黙々と自分に命じられたことを行っているようだ。そしてノアは洪水から守られることになる。
関係
神は、地上に悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを見て、人を造ったことを後悔し、心を痛めたという。出来損ないの人を見て悲しんでいる。では人が出来損なったということはどういうことだったのか。そのために神は心を痛められた、というのはどういうことなのか。
神がただ物を造っただけなら、命のない機械を造って、それがうまく動かないだけなら、おかしな動きをするというだけなら、心を痛めるということもないような気がする。
神は人を命あるものとして造った、そして神と共に生きるものとして造った。神との交わりの中に生きるものとして造ったのだと思う。ところがこの時、ノア以外の人たちは、神との交わりを持つことがなかったということのようだ。そのために悪が増し、常に悪いことばかりを思い計ったのだろう。悪とは要するに神の意志にそぐわないと言うことなのだから、神との交わりがなくなれば当然神の意志など分からなくなり、悪が増してしまう。
神は自分との交わりを持つようにと人を造ったのだろう。ところがその交わりを持たなくなってしまった。神はそれを交わりを持つことを期待して求めているが、人はその交わりを必要ないのないものとした。そこに悪がはびこってしまった。だから人を地上からぬぐいさろうとしたのではないかと思う。
神との関係の中に生きること、それを神はずっと求めているのではないか。その人個人がどんな立派な人間にって、一人で何でもできる人間になることを求めているのではなくて、自分との交わりを持ち続ける人間でいること、それを神は求めているように思う。
ノアが清廉潔白、罪も汚れも全くない、一点の間違いもない人間だったから神に救われたわけではないだろう。ノアは洪水後のことを見てみると飲んだくれて裸で寝てしまうような人だった。決して完全無欠な人間だったわけでもなく、結構だらしない間違いをいっぱい持っている人間だったようだ。
しかしノアのことを、その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった、と言われている。口語訳では「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。」という訳になっている。正しく全き人、と絶賛されている。無垢な人、正しく全き人というのは、間違いが全くないということではないようだ。それはきっと、その人自身に欠点がまるでない、罪がまるでないということではなくて、神との関係の中に生きている、神との交わりの中に生きている、神の声に従って生きている、ということなのだ。神との十分な関係を持っているということ、そのことを正しく全き人と言われているのではないかと思う。
周りの者が神のことなどお構いなし、という中で神の声に聞いていくということはなかなか大変なことだ。そんな中で神の声に従って行動していたノアは大した人物である。何が彼をそこまでしたのだろうか。そのことは聖書には何も書かれてはいないが。信仰深かったと言ってしまえばそれまでだが、そこまで信仰深くなれたのはどうしてなのだろうか。結局はそれも神との交わりを持っていたからなのだろう。神との交わりの中に生きていた、生かされていたということなのではないかと思う。信仰深いから交わりを持っていたのではなくて、交わりを持っていたから、その交わりを大事にしていたから信仰深く慣れたのだと思う。
聞く
日本の社会の中で教会に行くことは結構大変なことだ。いいところに行っているね、と言われるより、変なところに行ってる、といわれることが多い。僕が教会に行き始めたときにも、うちの親たちはおかしな宗教に凝りだした、と言っていたらしい。後で他の人から聞いた話だけれど。圧倒的少数派である教会にずっといるということはそれだけでも大したことだと聞いたことがある。日本のクリスチャンは自分のことをだらしない、駄目なクリスチャンだと言うのが口癖だが、この日本社会の中でクリスチャンでいることだけでも大したこなんだそうだ。もうちょっと自信をもった方がいいのかもしれない。
いろんな社会的なしきたりや慣習との摩擦がある。その中でどう生きるのか、それは大きな問題だ。そんな中で世間にただ流されるのでもなく、ただ反発するのでもなく、しっかりと神の声に聞きつつ生きていきたいと思う。