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礼拝メッセージより
歴史
11章ではバビロンを破ったペルシャから始まって、ダニエル書が書かれた当時の時代までの歴史が予言風にまとめられている。11章39節まではほとんど歴史通りになっているそうだ。特に後半のシリアのセレウコス王朝とエジプトのプトレマイオス王朝との戦いなどはかなり詳しい。11章21節以下に当時ユダヤ地方を支配していたアンティオコス四世が登場する。29節以下の所にでは2回目のエジプト遠征をした時のことが書かれている。30節には「キティム」の船隊が攻めるので彼は力を失うとある。キティムとはローマの船団のことだそうで、アンティオコス四世はローマ軍によって退去を命じられしぶしぶ退去したようだ。そしてエジプトからの帰り道にエルサレムに寄り、ユダヤ教の徹底的な弾圧をしたそうだ。
40節からはアンティオコス四世が第3回目のエジプト遠征をして43節ではリビアとクシュ、これはエチオピアのことだそうだけれど、そこまで占領したように書かれているけれど、力を持っているローマに逆らってもう一度エジプトへ行く力もなく、そこからは現実とは合わないそうだ。つまりアンティオコス四世がエジプトからの帰り道に非情な迫害を行った、その時期にダニエル書が書かれたということのようだ。
復活の希望
12章では大天使長ミカエルが登場する。そしてある者は地の塵の中の眠りから目覚め、ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に恥と憎悪の的となる、と言われている。
しかしこられのことを秘めてこの書を封じておきなさい、つまり秘密にしておきなさいと言われる。
また川の岸に経つ人が麻の衣を着た人に、これはいつまで続くのかと聞くと、一時期、二時期、そして半時期、聖なる民の力が全く打ち砕かれるとこれらのことは全く成就すると言う。民が絶望してしまうような事態が起こる、しかしその時にすべてが成就する、新しい世界がやってくるということのようだ。そしてそれはダニエル書が書かれた時の現実に起こっていることがらでもあるのだろう。
絶望するしかない現実が目の前にある。しかしそれはこの苦難の終わりを告げる時でもある、もうすぐ終わる、そして新たな時代が始まるということだろう。
きぼう
旧約聖書で来世について書かれているところはほとんどないそうだ。
あまりに激しい迫害にこの世での希望を持てなくなっているということなのかなと思う。信仰を守り通すことで殺害されていくという現実を前にして、残る希望はあの世にしかないということでもあるのだろうか。
しかし苦難しか見えない時に、希望の種が全く見えない時に、それでも希望を持ち続けることができるというのはすごいことだ。
目に見える希望の種がないときに、目に見えない神に希望を持つことでユダヤ人たちはこの時代を生きて、そして死んでいったのだろう。
ユダヤ人たちはどうして命をかけてまでこの神を信じていたのだろうか。
自分の信仰を貫くという言い方があるけれどちょっと違う気がする。信仰を貫くというと、自分の持っている信仰というものを必死で守り抜くようなイメージがあるけれど、それとはちょっと違う気がする。自分の持っているものを守り抜くのではなく、自分に何もないけれど神に希望を持つ、希望の元である神に縋り付いていくといったことなんじゃないかと思う。
これが真実だからとか、これが本当の神だからとか、これが本当の信仰だからそこからそれてはいけないからということではなく、それよりもこの神にしか縋れない、他の神には縋れない、自分が縋れるのはこの神しかない、希望を持てるのはこの神だけだ、だからどこまでも縋っていったということなんじゃないかなと思う。
自分の信仰を守ることに必死になっていたんじゃなくて、必死で神に縋っていたということなんじゃないかと思う。そこにしか希望を持てないからこそ必死に縋っていたということなんじゃないかと思う。
ダニエル書を読んでいると、息子が引きこもっていた時のことを思い出す。心配症なせいもあってついつい悪い方に考えてしまっていた。全然先が見えない気分だった。このままずっと引きこもってしまったらどうなるんだろうかという恐怖がずっとあった。時々夜中にふと心配になって眠れなくなるようなこともあった。どうにかしてくれと祈ったら安心できた、なんて言えたら格好いいのかもしれないけれどそんなことはなくて、祈りなのかなんなのかわからないけれど愚痴をこぼしたりお願いしたりしても心配は消えるわけではなかった。それでもやっぱり最後は神に縋るしかないという気持ちではあった。
でもそうやって愚痴をこぼしたりお願いしたりする相手がいるということはありがたいことだった。縋る相手があるということは幸せなことだと思った。
祈る相手があるということ、自分の不安や嘆きや絶望をぶつける相手があること、縋り付く相手があること、それはとても幸せなことだと思う。
いつも私たちといっしょにいる、私たちを大事に思ってくれている、その相手に祈っていくことができる、それはとても幸せなことだと思う。何があってもこの神は私たちと一緒にいる。いつも一緒にいる。