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礼拝メッセージより
預言者
預言者ってどうやって神の声を聞くのだろうか、と常々思っている。自分も神の声が聞こえたらいいのになと思う。これを礼拝で話しなさいという言葉が聞こえたらどんなにいいだろうかと思うけれど、そんなのは聞こえたことはない。聖書教育には「預言者の学校」と呼ばれるものがあって、エリヤはそこで弟子たちを養成したようだ、という話しが載っていた。今日登場するエリシャはその学校の責任を担う後継者に任命されたということらしい。
しかし預言者は学校で養成できるようなものなのかなという気もする。今の神学校みたいな感じなんだろうか。そこで養成された者が預言者になるということなのかな。エリヤはそんな預言者たちのリーダーをエリシャに託す、今日の話しはそんな話しのようだ。
エリシャ
列王記上19章16節にのところで、神はエリヤに対してエリシャに油を注ぎ、あなたに替わる預言者とせよ、と告げている。そして19章19節以下のところを見ると、エリシャが畑にいる時にエリヤが自分の外套を投げかけたと書かれている。預言者は一人だけではなくて他にもいるから、これは預言者集団のリーダーの後継者としてエリシャを選んだという行為のようだ。
この時エリシャは12軛の牛を使って畑を耕していたとある。どうやら結構な金持ちだったようだ。
エリヤの最期
そして今日の箇所はエリヤの死が近づいてきた時の話しだ。
エリヤは一人になりたかったのか、自分はベテルまで行くがエリシャにはそこにとどまるように、と語る。預言者の学校を管理するようにということかもしれない。しかしエリシャは、主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません、と言ってついてきた。
ところでこの「主は生きている」という言い方が旧約聖書にはよく出てくる。これは文字通り神は生きてるんですよ、というよりも、神にかけて誓うというような慣用句なんじゃないかなと思う。つまりエリシャは神にかけてあなたを離れません、と言っているんだろうと思う。
ベテルに到着するとそこにいる預言者の仲間たちが、主があなたの主人を取り去ろうとしているのを知っていますかと聞くと、エリシャは、知っています、黙っていてくださいと答えた。
その後エリヤはエリコへ行こうとし、エリシャにそこに留まるようにというけれども、やっぱりエリシャは着いてきた。そしてエリコへやってくると同じようにそこの預言者の仲間たちがエリシャに、主があなたの主人を取り去ろうとしているのを知っているかと聞くと、エリシャはやはり、知っている、黙っていてくれ、と答えた。
その後エリヤはヨルダンへ行こうとし、やはり同じようにエリシャにそこにとどまるようにと言うが、エリシャも着いてきた。そして今度は預言者の仲間50人もついてきた。
そこでエリヤは、願う物を与えよう、と言うとエリシャは、あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください、と言った。
話しをしながら歩き続けていると、火の戦車が火の馬にひかれて現れ、エリヤは嵐の中を天に上っていったという。
そこにエリヤの外套が落ちてきて、エリヤがしたようにヨルダン川を打って左右に分けてそこを渡った。
別れ
エリシャは自分の師匠がいなくなってしまうという、いなくなったらどうなるのか、どうしたらいいのかという不安でいっぱいだったんだろうなと思う。エリヤの死が近いことはきっと誰よりもよく分かっていて、だから今はどこまでも着いていこうとしたんじゃないかと思う。
預言者の仲間から、エリヤがもうすぐ取り去られると知っているかと聞かれると、そんなことはよく分かってる、黙っといてくれと言った。それも、不安と焦りの現れだったんじゃないかと思う。それはエリシャ自身が、もうすぐエリヤがいなくなる、別れが迫っているということを、なかなか受け止められないけれどなんとかして受け止めようともがいているということなんじゃないかと思う。自分で一所懸命に受け止めようと努力しているんだから、まわりからがたがた言ってくれるな、ということだったんじゃないかと思う。
エリヤに、あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてくれ、と言ったのは、これは長子が他の子どもの2倍を相続したことから、一番弟子としての力を願ったというような説もあるみたいだけれど、自分には何の力もない、自信もない、だからできるだけいっぱい欲しい、貰えるものはなんでも貰っておきたいという願い、それほど不安だっただったということじゃないかと思う。
師匠の死が近づいてきて、それまで師匠について行っていれば大丈夫、師匠がいるから大丈夫と思っていた。ところがいきなり自分が独り立ちしないといけないことになり、不安で不安で仕方ないという状況なんだろうと思う。
そしてエリヤが、わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いがかなえられる、と言ったけれど、エリヤの死をエリシャがきっちりと見たことで覚悟が出来てきたんじゃないかと思う。
火の戦車と火の馬が出てくるけれど、エリシャにとってエリヤの死は、エリヤを火の戦車と火の車で嵐のように無理矢理連れ去られてしまったという気持ちであったということなんじゃないかなと思う。
そんな思いでいるエリシャにエリヤの外套が落ちてきたという。エリヤの外套がエリシャのために残された。不安をいっぱい抱えているエリシャに対するそれは神の助けの象徴だったんだと思う。
不安がいっぱい
なんだかモーセを思い出した。出エジプト4章20節にこんな言葉がある。「モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。」
もともとただの杖であったものが、20節では「神の杖」となっている。神の杖を持ってモーセは逃亡していたミディアンを出発した。この杖を握りしめてモーセはエジプトへと帰っていったのだろう。自分が逃げてきたところへもう一度帰って行くのだ。ユダヤ人たちを救い出すためという神の命令ではあるけれども、そのユダヤ人たちからの信頼もない。自分でどんなことでも切り開くという自信もなかったのだろう。そんな才能もあるかどうか分からない。あるのは不安ばかりだったのだろう。
頼るとしたらただ神にしか頼ることができない。神がついているというかすかな証拠、それが神の杖だった。この神の杖を握り締めていなければとても出て行けなかったのでは。この神の杖にもたれかかるようにしてモーセは出て行ったのだろう。不安を振り払っていさんで出発したわけではないだろう。不安を一杯抱えたまま、それでも神が共にいるという、それだけを希望に神の命令に従っていったのだと思う。
そして神はこのモーセを通して大きな働きをなされた。神はそんな不安だらけの人間を用いていった。
エリシャもいろんな不安をいっぱい抱えていたのだと思う。けれどもその不安を抱えたままそこで立ち上がって行ったのだろう。モーセにとって杖が神の助けの象徴だったように、エリシャにとってエリヤの外套が神の助けの象徴だったのではないかと思う。
それで水を打つと水が分かれたというのもモーセを暗示しているかのようだ。
大丈夫だ、私がついている、お前ならできる、神は不安がいっぱいの私たちにもそう神は語りかけてくれているに違いない。そんな神の声をしっかり聞いていきたいと思う。