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礼拝メッセージより
告別説教
ヨハネによる福音書15章から17章はイエスから弟子たちへの告別説教となっている。ここの多くはもともとの福音書にあとから書き加えられたところだそうだ。キリスト者たちがユダヤ教の会堂から追放されてしまい、そのことから社会的にも除け者にされるという苦難に遭うことになった。そんな時に自分達の信仰に基づいて当時の教会の人たちが聞いてきたイエスの言葉、心の中に甦ってきたイエスの言葉と言った方がいいのかもしれないけれど、そんな言葉がここにまとめられているということらしい。
わたしの名によって
教会は苦難の中にあるけれども、そこに生身のイエスはいない。イエスのいない教会でその苦しみにどうやって耐え抜いていくのか。それは直接神に祈るということ、直接神に願うということだ。イエスの名によって直接神に祈れということだ。
それまではイエスが私たちに替わって願ってくれていたけれども、これからは私たちが直接父なる神に願うようになるから、そうできるようにイエスがしてくれたから、その道筋をイエスがつけてくれたから、だからイエスの名によって願うようにということなんだろうと思う。
そしてそうやって父なる神に直接願うことができる根拠は、イエスは、「父ご自身があなたがたを愛しておられるから、あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出てきたことを信じたから」だと言う。
父なる神が私たちを愛してくれているから、私たちは直接父なる神に願うことができる、そしてそのことをイエスが伝えてくれたから、イエスの名によって願うということのようだ。
そして23-24節を見ると、「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられる。あなたがたは喜びで満たされる。」と言われている。
願ったら与えられると言われている。本当なんでしょうか。だったらあれもこれも何もかも願いたいと思う。願っていることはいっぱいあるのに、祈っていることはいっぱいあるのに、与えられてないと思うのはどうしてなんだろうか。願ってないからなんだろうか。それとも願い方が悪いのだろうか。
平和
32節以下の所では、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る、なんてことを言われている。
十字架を前にして弟子たちがイエスを見捨てた逃げたことはみんな知っていることなんだろう。そして当時の教会の人たちも同じ境遇になったときに見捨てないと言いきれる人もいなかっただろう。しかしそのことをイエスから責められることも糾弾されることもない、イエスはそんな人間の弱さもよく知ってくれているということを伝えているようだ。
私たちは自分の嫌な面を誰にも知られたくないと思う。こんなこと知られたら嫌われるんじゃないか、相手してくれなくなるんじゃないか、冷たくされるんじゃないかと心配して自分のいい面だけを見せようとする。そうやって本当の自分を隠すのはとても疲れるし、いつもびくびくすることになる。
でも嫌われたくないとか友だちをなくしたくないとか思って、自分のありのままを見せないようにしてしまうことがある。でも、実はありのままを見せても友だちでいてくれる人はいて、ありのままを見せて遠ざかっていくのは本当の友達ではない、なんてことも聞く。案外自分が思っているほど自分の本質は隠せてない、実はばればれということが多いのかもしれない。それでも遠ざからないで近くにいてくれる人はいてくれる。それが本当の友達なんだろう。
隠しておきたい思うような自分の弱さやだらしなさのようなことを知られているというのは、結構楽というか安心できることなんだと思う。
あなたがたが散らされると言われているということは、イエスが弟子たちに、あなたたちが強い人間でないことも分かっている。自分を裏切ることも何もかも分かっている、分かった上で愛しているのだ、だから良い格好をする必要もない、何も隠さなくてもいい、自分のだらしなさや醜さがばれたらどうしようと心配することもない、そんな心配はするな、ということなんではないかと思う。失敗したっていいだ、挫折したっていいんだ、そんな私たちをイエスは愛してくれているのだ、と言っているようだ。
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るため、と言われているのはそういう意味もあるのではないかと思う。
勝利
そして最後の最後に、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言う。
世に勝っているんなら苦難にあわせないでくれ、と思う。けれども現実にはイエスが言うように苦難がある。いっぱいいっぱい苦難がある。
しかしイエスは既に世に勝っているという。
私の名によって願いなさい、そうすれば与えられると言われる。
けれども私たちに見えているのはいっぱいの苦難となかなか願いどおりにならない現実、なかなか思ったようにならない現実ばかりだ。イエスの勝利を直接見ることもできないように思うし、また私たちが一所懸命に願うことも、なかなか叶わないのが現実だ。そして自分のダメさや至らなさや醜さや弱さや、そして不安が私たちの目に前に鎮座ましましている。一所懸命に探しても私たちの希望となるようなものはなかなか見つけられない。
けれどもそんな真っ暗闇の中にあるような私たちに、イエスは私たちの心の中から語りかけている。「私の名によって願いなさい、そうすれば与えられ、喜びで満たされる。勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている。」
私たちの目に見える現実は真っ暗闇かもしれない。しかしイエスは静かに、しっかりと語りかけてくれているのではないか、大丈夫だ、私がついている、私はあなたの味方だ、と。
勇気の素はそこにある。