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礼拝メッセージより
「正直に」 2013年8月4日
聖書:ダニエル書 1章1-21節
ダニエル書
バビロニアはペルシャという国に滅ぼされ、バビロンに補囚されていた民はユダの地に帰ることができるようになった。紀元前四世紀後半、そのペルシアも次第に弱くなってきて、マケドニアのアレクサンドロス大王によって、ペルシア帝国は滅ぼされた。アレクサンドロスは、わずか12年間でペルシア帝国の支配領域をすべて支配下に治め、一大帝国を建設した。しかし32歳で病死する。マケドニア帝国の領地は、残された四人の将軍によって分割され、ユダヤは、最初はエジプトを支配したプトレマイオス王朝に、次にシリアを支配したセレウコス王朝に支配されることになる。
プトレマイオス王朝は、ユダヤ人たちに自由は宗教生活を許可した。そしてパレスチナにもヘレニズム的な、つまりギリシャ的な影響が多く入りこんできて、ヘレニズム様式の都市や建物が建設されたり、ヘレニズム的な思想も入り込んできた。ユダヤ人の中にはこのような傾向を歓迎するグループもあれば、反発を覚えるグループもあった。言葉もギリシア語が公用語として使われるようになり、この時代に聖書のギリシア語への翻訳が行われた。
前198年、シリアのアンティオコス三世が、エジプトのプトレマイオス五世を破り、これ以後ユダヤはセレウコス王朝の支配下に入った。アンティオコス三世は、ユダヤ人に宗教生活の自由を許したが、次のアンティオコス四世は、エジプト遠征の戦費をまかなうために、エルサレム神殿の財宝を略奪し、その後ユダヤに対する徹底的な宗教弾圧を開始した。律法の書を焼かせ、安息日や割礼などの律法に従うことを禁止し、エルサレム神殿や国内の各地にギリシアの神ゼウスの像を置いて礼拝することを強制し、ヤハウェを礼拝することを禁止した。そんな中でも偶像礼拝を拒否して、ヤハウェを礼拝することを固守した者たちは殺されてしまった。
そんな迫害に苦しむ人々を励ますためにこのダニエル書は書かれた。
宗教的な弾圧があったために、下手に時の体制の非難をすると何をされるかわからないので、それを誤魔化すために昔の物語として書かれたらしい。そういう黙示文学という形式でダニエル書は書かれた。表向きは昔の物語となっているけれども、今の状況を投影して、今苦しい思いをしている人達を励ますために書かれたということらしい。
ものがたり
物語の筋は単純で、バビロンの王が補囚としてバビロンに連れてこられた者から、容姿端麗で才能もある4人が選ばれ、カルデア人の言葉と文書を学ばせた。カルデア人というのはバビロン人のことのようだ。そこで選ばれたのが、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの4人だった。4人は本来の名前ではなくて、ダニエルはベルテシャツァル、ハナンヤはシャドラク、ミシャエルはメシャク、アザルヤはアベド・ネゴ、という名前で呼ばれることになったた。
この名前には意味があって、ダニエルは「神は裁き主」、ハナンヤは「ヤハウェは恵み深い」、ミシャエルは「神である方は誰か」、アザルヤは「主は助けられる」という意味だそうだ。エルとかヤは神を意味する言葉だそうだ。
その名前を、ダニエルはベルというバビロンの神の名をとって、「ベルのご加護を」という意味の名前で呼ばれることになった。またハナンヤは、バビロンの太陽神である「ラクの光を受ける」という意味の「シャデラク」、ミシャエルは、異教の神の名である「アク」から「アクである方は誰か」に、そしてアザルヤは、バビロンの神ベルの息子と思われる「ネボのしもべ」という意味の「アベデ・ネゴ」と呼ばれることになった。
自分達の信じる神に由来する名前だったのを、異教の神に関係する名前に変えられたということになる。そしてバビロンの王は、彼らにバビロンの英才教育を受けさせ、バビロン人となってバビロンを背負っていく者となるようにという期待を持っていたということなんだろうと思う。
しかしダニエルたちは肉類と酒で自分を汚すまいと決心した。律法的には血の付いたものや豚は食べてはいけないことになっていた。そこで完全に血を抜いて、しっかり火を通してから肉を食べていたそうだ。ダニエルたちは律法を守ろうとした、律法的に汚れたことは拒否しようとした、要するにバビロンにおいてもユダヤ人として生きようとした、ということだ。
そこで侍従長に野菜と水だけにしてくれと頼んだけれど聞いて貰えず、今度は世話係に頼み、十日間試してもらったけれど他の者たちよりも元気だったので、その後も世話係は野菜だけにしてくれた。
3年間の養成期間が終わったが、4人は他の者たちよりも優れていたので王のそばに仕えることになった。
そういう話しだ。
正直
どこにいても神を信じていれば、そして神の命令に従っていれば大丈夫、だからこの神を信じていきましょうという話しにも聞こえるけれど、それよりも、自分の思いや信念に正直に生きなさい、ということなのではないかと思う。
自分の信仰や信念を貫くというのはなかなか大変なことだ。
今の日本でクリスチャンであることとか、教会に行くこと、礼拝に行くことというのは本当に大変なことだと思う。この社会の中で信仰を守り通している日本のクリスチャンはすごい、と言った牧師がいたけれど本当にそうだと思う。教会に行くなんて完全に少数者であるし、社会から見ればいわば変わり者であるわけだ。そして変わり者はなかなか受け入れてくれない社会な訳で、そこでずっと教会に通っているとか、クリスチャンであるとかいうのは本当にすごいことだなと思う。
食べたくもない肉を食べさせられ、信じていない神を礼拝することを強要された時代だったわけだけれど、この物語を聞いてユダヤ人たちは励まされたんだろうなと思う。もちろんダニエル書のように神を信じていればなにもかもうまくことが運ぶわけではなかっただろう。支配者に認めてもらうなんてこともなくて、逆に弾圧され迫害されるばかりだったのだろうと思う。全く思うようにいかない苦しい状況だったのだろうと思う。弾圧する支配者を苦々しく思うばかりだったのだろうと思う。
そんな苦しいことが続くと、その苦しみにばかり、目に見える大変さばかりに目を奪われてしまいがちだ。しかしダニエル書を読むことで、その背後には神がいて、見えないところで支えておられるということ、すべてのことは神の手の中にあるということ、彼らはそのことをふと思い出したのではないかと思った。
自分の信仰や信念を大事にしなさい、自分の思いに正直に生きなさい、そう励まされているんだろうと思う。実は信仰や信念を曲げること、無理やり曲げされられること、これが人間にとって一番つらいことなんじゃないかと思う。
好きなものを好きといえない、嫌いなものを嫌いといえない、信じるものを信じると言えない、信じないものを礼拝しないといけない、そんな風に自分の信仰や信念を曲げさせられること、それは自分自身を歪めてしまうことになる。
あなたは信じる道を行きなさい、勇気を持って生きなさい、私が支える、私が支えている、見えないところで支えている、だからそのことを信じて、正直に生きなさい、そう励まされているように思う。正直に生きるということは自分を大事にすることでもあるのだと思う。
最初ここを読んだ時は、ダニエルのように神に従ったからといってうまくいくとは限らないし、むしろうまくいかないことばかりだし、ダニエルみたいに能力もあって認められるなら苦労しないよ、と思っていた。
自分の人生はそんなうまくはいかない、駄目だなと思うことばかりだ、自分の無力さとだらしなさを見せつけられるようなことばかりだ。けれど、でもやっぱり神は見えないところで支えてくれているはずだと思ってきた。ええかっこしなくてもいい、無理しなくてもいい、自分に正直に生きなさい、そのお前を私は支えているのだ、そう言われているような気になっている。そう思ってちょっと安心している。