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礼拝メッセージより
「夢、希望、目標」 2013年5月5日
聖書:イザヤ書 2章1-5節
成長
最近、人類は成長しているのだろうかと思う。エジプトの遺跡の中に、近頃の若い者はなっていない、というような言葉が書かれていると聞く。或いは紀元前にいたようなギリシャの哲学者の言葉に改めて教えられたりする。最近の科学とか技術の進歩はすさまじいけれど、人間って結構前から同じようなことを考え同じようにことに悩み苦しんできたような気がしている。人間は案外変わってないような、あまり成長してないような気もしている。
そして相変わらず戦争はなくならない。さんざん戦争をしてきてつらい思いをしてきてもなくならないのは何故なんだろうなんて思っていた。けれど、本当に辛い思いをしてきたのは一部の人達だけなのかもしれないなんて思ってきた。戦場に立たされた人達、自分の土地を戦場にされた人達にとって戦争は忌まわしいものだろうけれど、そうではない人達にとってはさほど忌まわしくもなく、逆に戦争をすることで金持ちになったりいい思いをする人もいるらしい。だとするとなかなかなくらないだろうなと思う。
イザヤ
預言者として神の言葉を預かる人のことだけれど、どうやって神の言葉を聞くのかとずっと思っている。どうやって聞こえてくるのかはよくわからないけれど、同時に時代を見る目に優れていた人でもあったようだ。特別にそんな能力を与えられていたようだ。
イザヤが召命を受けたのは前740年ごろらしい。当時ユダヤの国は、北王国イスラエルと南王国ユダとに別れていた。けれど、丁度北方にあるアッシリアや南にあるエジプトの脅威が少なくて北イスラエルも南ユダも経済的にはとても豊だったそうだ。しかし金持ちは貧しい者を踏み台にして我が物顔に振る舞い貧富の差が広がっていたそうだ。宗教的にも自分の欲望を満たしてくれるものということもあったのだろうけれど、カナンの宗教を取り入れて偶像崇拝をしていたそうだ。
やがて自国の権力争いなどで弱かったアッシリアがだんだんと強くなってきて世界帝国への道を歩んでいた。彼らはシリアを占領し、北イスラエルを滅ぼし、今は南ユダ王国に迫っている、そんな時代だった。
終わりの日
そんな時にイザヤはユダとエルサレムについての幻を見る。終わりの日には多くの民がエルサレムに、主の下に集まってくる、そして戦争はしないというような幻、直訳すると言葉だそうだけれど、そんな言葉を見た、幻を見たというのだ。
4節の「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という言葉は、国連のそのビルの土台の石に刻まれているなんて話しを聞いたことがある。
この前の戦争の時には鍋や釜や、あらゆる金属を供出して武器を作ったなんて話しを聞いたことがある。しかし終わりの日にはその武器から鋤や鎌を作る、畑を耕し収穫する道具を作る、つまり武器は必要ない、戦争はしないというわけだ。そんな終わりの日がやってくるとイザヤは言う。
夢、希望、目標
イザヤはなぜこんな幻、言葉を見たのだろう。見せられたのかもしれないけれど。まるで夢のような話しだ。武器を供出して鋤や鎌を作るなんて、そんな時代がくれば本当に嬉しいだろうけれど、そんなこと本当にありうるんだろうか、なんて思う。国連の土台の石に書いても戦争は一向になくならない。なのになぜこんな幻を見たのだろう。
それは夢であり希望であり目標だったから、そしてそれをイザヤがずっと見据えていたということだったのだろうと思う。
現実には大国の脅威が近づくと、それに対抗する手段を講じ武器を調達するということを誰もが考え、実際にそうしていただろうと思う。
そんな時イザヤはずっと先のことを見ていたということなんだろうと思う。それは駄目これは駄目というような目先のことだけではなく、自分達の目指すべき目標というか、希望というか、ほとんど夢に近いのかもしれないけれど、そこを見据えた上でひとつひとつの事に対処していたということなんだろうと思う。目に見える現実は幻とはまるで違っていたのだろうと思う。けれどもそんな中でもというか、そんな時だからこそ夢、希望、目標をしっかりと見ていくことが大切だったのだと思う。
私たちの現実も、本当に大変だ。今の日本にも戦争をしたい人がいるらしい。戦争に向けて準備をしないといけない、というような風潮になってきている。攻められたらどうするのか、とよく言われる。そうすると困ってしまう。けれどだからとどこにも負けない国にするのは私たちの夢ではないと思う。
私たちの教会の夢はどんなだろうか。やっぱりみんなが喜びを持って生きていくことなんじゃないかと思う。喜びを伝えていくことなんじゃないかと思う。目に見える現実は厳しい。でも夢や希望を決してなくさないようにしたい。
たとえ今は見えなくても、そこに向かって進んでいきたいと思う。そのためにももっと幻を、言葉を見せてほしいなと思う。