前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「家に帰ろう」 2013年4月21日
聖書:マルコによる福音書 5章1-20節
墓場
イエス一行が湖を渡って、ガリラヤ湖の南東側にあるゲラサ人の地、デカポリス地方へ来た時の話しだ。
墓場をすみかにしている悪霊に取りつかれた人がいた。この男はかなり狂暴で人々が鎖や足かせでもつないでいられない、そして夜も昼も何かを叫び続けている、また石で自分の体を傷つけている、と書かれている。
イエスは『「汚れた霊、この人から出ていけ』」と命じたとある。
しかしこの男は『イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ』。イエスを見てイエスにかかわりを持たないではいられなかった。しかし彼が言ったことは「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」ということだった。彼はイエスに助けてくれ、と言ったのではなかった。それさえも言えない状態だった。イエスを神の子と言いつつも、今の自分に関わらないでくれと言う。それこそが汚れた霊のなせるわざなのだろう。
汚れた霊
イエスは男に名前を聞くとレギオンだと答える。レギオンとはローマ帝国の軍団のことだそうだ。一つの軍団には4000人から6000人いたそうだ。
この男は汚れた霊につかれていたと書かれているが何千もの汚れた霊に取りつかれていたということなのかもしれない。
そもそも汚れた霊に取りつかれた、とはどういうことか。そういうものが存在するのか。良く分からない。会ったこともないし。テレビなどはこういう話が好きだ。何でもかんでも霊のしわざにしてしまう。何でも霊のしわざにすると説明はつく、というか説明は簡単。
イエスの名によって悪霊を追放したというような映画もあった。本当にあんなことはあるんだろうか。よくわからない。でも、今で言えば精神的な病気の人のことも当時は汚れた霊に取りつかれているとみられていたようなので、そういうことなのだろう。墓場に住んでいたり、暴れて叫んでいたりしたら汚れた霊に取りつかれているのだと見られても仕方ないという気もする。大変なショックな出来事があったり、大変な苦しい目にあったりすると誰もが尋常ではいられなくなり、汚れた霊にとりつかれたような状態になっても不思議ではないと思う。
失敗
しかしこの人はどうして墓場に住むようになったのだろうか。どんなことがあったのだろうか。
ある本のなかに、景気のいいときに株で儲けていた人が株価の暴落で大損をして、仕方なく一家心中をはかったということが書いてあった。一人娘と妻と3人で死のうとしたが、実際に死んだのは子どもだけだった。この人は殺人の罪に問われて刑務所に入りなんとかやり直そうとしていたが、妻は世間の風当たりもつらく、しばらくして自殺してしまった、という内容だった。
もし自分がこんな立場になったとしたら、どうなるだろうか。とてもじゃないが冷静に物事を考えることもできないだろう、なにもかもぶちこわして暴れるしかないかもしれない。この墓場の男もあるいはそんな状態だったのかもしれない。どういうことから墓場にいることになったのかは書かれていない。彼も失敗したのかもしれない、人生に失敗したというような状況だったのかもしれない。
冷静に物事を考えることもできず、人の忠告ももちろん聞くこともできず、ただ叫ぶしかない、自分自身を傷つけるしかない、そんな状態だったのではないか。社会を責め、運命を呪い、しかしそれは具体的な相手がいるわけでもなく、結局はそれに飲み込まれてしまった自分自身を責める、そしてそれにも疲れて何もできなくなる。この汚れた霊につかれた男はこんな有り様だったかもしれないと思う。
自分の挫折や失敗、弱さを認められないこと、それはとても苦しいことだ。そんなことでは駄目だ、そんな自分では駄目だ、失敗も間違いもなく立派にやっていないと決して認められない、なんて思っていたとしたら、いつも緊張して背伸びしているような疲れる人生だろう。そして少しの失敗や少しの挫折で自分を責めてしまうことになる。
自分は挫折もする、失敗もする、人も傷つける、躓かせる、そんな弱い罪深い人間である、ということを認めることが大事なのだと思う。そこで初めて神に向かって救いを求めていくことができる。この男が挫折を認めて救いを求めていたなら、救いを求める相手がいたならば、自分を傷つけ、昼も夜も叫ぶなんてことにはならなかったのではないか。
挫折したとしてもプライドを捨てられない、失敗した自分を赦せない、認められない、こんな自分では駄目なのだと自分を責めてしまう、それはまさにけがれた霊にとりつかれたような人間の姿ではないかと思う。
解放
しかしイエスはこのような男のために来てくれた。この男を支配する霊を追い出したと福音書には書かれている。
イエスが許したので汚れた霊たちは豚の中に入り、その豚は湖になだれ込み二千匹の豚が溺れ死んだ、と書かれている。二千匹とはずいぶん大袈裟な話しになっていると思う。また実際にこの豚とどういう因果関係があるのかはよくわからないけれど、男が正気になったのと同じ頃に豚が溺れ死んだという事件があって、汚れた霊のためにそうなったといううわさが広まったのかもしれないなんて想像している。だからことの成り行きを聞いて、人々はイエスにこの地方から出て行ってくれと言った。
家に帰りなさい
いやされた男はイエスについていくことを願った。しかしイエスは「自分の家に帰りなさい」と言って許さなかった。いきなり自分に従えと言うこともあるイエスなのに、ここではついてきたいと言うのに家に帰れ、と言う。
しかしこの男にとっては自分の家に帰るということは大変なことだっただろう。かつての自分のことを知っている人達のところへ帰っていくということになる。墓場にいて叫んでいたことも知っている。何もかも知っている人が大勢いる地域へ帰っていくということは大変なことだ。むしろ過去を全部捨ててしまって、イエスについていったほうが、よほど気が楽だったのではないか。
イエスはそんな男の気持ちも分かっていただろう。もちろんイエスのそばにいたいからという気持ちもあったと思うけれど、そんな気持ちを知った上で、イエスはこの男に家に帰るように言ったのだろう。
この男にとって家に帰るということは、苦しい過去、失敗した過去と向き合う人生であったのではないかと思う。苦しいことではあったと思うけれど、イエスに助けられたこと、イエスに受け止められたこと、それを支えとしてこの男は自分の過去と、そして自分自身を自ら受け止めていったのではないかと思う。そして自分自身と自分の過去を受け止めることで、実はそこから新しい人生を生きることができていったのではないかと思う。
しかもそこでイエスが自分にしてくれたことを知らせるようにとの務めを任されることになった。知らせるというのは宣教するという言葉なんだそうだけれど、そこで新たな大事な務めにつくことになったということだ。
イエスは私たちにも新しい人生がはじめよ、と言われているのかもしれない。新しい人生とは言っても、以前と同じ顔かたちをしていて、そして今までの過去を引き摺った人生であり、相変わらず失敗と挫折の人生であり、見た目は何も変わらない人生だろう。住んでいる家も家族も、まわりの境遇も何も変わらない人生だろう。
しかしイエスが受け止めてくれた人生だ、イエスが認めてくれた人生だ。それでいい、よくやっている、そのお前が大事だ、そう言われている人生だ。だからこそ新しい人生なのだ。
イエスは汚れた霊に取りつかれていた男に、家に帰りなさいと言った。新しい人生は環境の違う別の場所にあるのではない、あなた自身の中にあるのだ、と言われているような気がする。あなたが自分自身を、また自分の過去を認め、受け止める、そこに新しい人生があるのだと言われているような気がしている。
私は今のあなたが大事なのだ、今のあなたが大切なのだ、だからあなたも自分を大事に大切にしてほしい、そのことを忘れないでほしい、イエスはそう言われているのではないか。