聖書:コリントの信徒への手紙一 10章23節-11章1節
ハラール
現代でもイスラム教では、豚肉を食べることが禁止されているが、それ以外の肉であっても殺し方が正規の手順に従ったものでなければ食べられないそうだ。
例えば、その家畜が食べた餌に違反するものが入っていてはならないとか、必ずムスリムが殺したもので無ければならず、鋭利なナイフで「アッラーの御名によって。アッラーは最も偉大なり」と唱えながら喉のあたりを横に切断しなければならない、と言ったような決まりがあって、その決まりを守っている食べ物のことをハラールと言うそうだ。そして合格した者にはハラールのシールが貼ってあるそうだ。イスラム教徒にもいろいろあってあまり気にしない人もいるそうだが、厳格な人はそれじゃないと食べないようだ。
食事
8章にも偶像に供えられた肉についての話しがあった。そこでは、偶像に供えられた肉でも食べてもよい、なぜなら偶像なんてものはそもそも存在しないのだから、でも弱い人たちを罪に誘うようなことにならないように気をつけなさい、ということだった。
そして今日のところでは市場で売っている肉についての話しが出てくる。市場で偶像に供えられた肉が売られていたそうだ。
供え物には私的なものと公的なものがあったそうだ。私的な供え物の場合は、少しだけ、頭の毛を数本だけという話しもあるようだが、ほんの少しだけを祭壇で焼き、あばらとももの肉と顔の左半分とが祭司のものとなり、残りを供え物をした人が持って帰って宴会を開いたそうだ。それを神殿で食べることもあったらしい。
公的な供え物の場合も、ほんの少しだけ祭壇で焼いて、祭司が分け前を取り、残りが役人などのものになったが、彼らは余分な肉を市場に売っていたそうだ。 異教の神々に供えられた肉がそういう形で市場に出回っていた。そこで偶像に供えられた肉を食べてはいけないということになると、これは一体どこの肉なのか、偶像に供えられた肉ではないのかということが心配になる。
しかしパウロは、市場で売っているものは何でも食べなさいとか、信仰を持っていない人から食事に招待される時にも、出されたものは何でも食べなさいと言っている。その理由は「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからだということだ。この世の物はすべて主によって創られたものだからということだろう。8章で言われていたように、偶像なんてものはそもそも存在しないのだから、そこに供えられたからといって供え物自体がどうかなるものではない、ということでもあるのだろう。
許されている
本来私たちにはそういう風にすべてのことが許されている、しかしすべてのことが益になるわけではない、すべてのことが許されている、けれどもすべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない、とも言う。
すべてのことが許されている、というのはコリントの人たちのスローガンだったのではないかという話しもある。6章12節にも同じような言葉が出てくる。
6:12 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。
すべてのことが許されているということは、イエスが私たちをあらゆるしがらみから解放し自由にしてくれているという事とも通じることであり、パウロもこのことを繰り返し語っている。しかしそんな自由を自分の利益ではなく他人の利益を求めるために用いなさい、とパウロは言う。
どんな肉でも食べてもいい、けれどもその肉が、これは偶像に供えられた肉です、という人がいるなら、そのことを気に留める人がいるなら、その人のために食べてはいけないというのだ。
神の栄光
その後の29,30節はなんだかよく分からない。しかし兎に角、食べるにしても食べないにしても神の栄光を現すためにしなさいという。
神の栄光を現すためって何なんだろう。僕たちが神の栄光を現すことなんかできるのだろうか。
そのためにすることとは、ここに言われている、自分の利益ではなく他人の利益を追い求める、ということなんだろうと思う。13章の愛の話しの中にも、
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。霊を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」(13:4-5)とある。自分の利益ではなく他人の利益を求めるということは愛するということなのだろう。そして愛することが神の栄光を現すということなのだろう。
長い箸の話しを思い出した。
『天国にも地獄にも食べ物は同じ分量,たくさんの食べ物があります。天国でも地獄でも,みんなま〜あるい テーブルを囲んで座り食事を始めるのですが,その時両者とも1メートル以上もある長い長い箸を使って食べなければならないのでした。天国でも地獄でもその条件は全く同じなのでした。
ところがいざ食事を始めるとなると,天国と地獄ではその箸の使い方に大きな違いがありました。
地獄にいる人はそのなが〜い箸を使って一生懸命食べようとするのですが,箸があまりにも長すぎるために,なかなか思うように食べ物を自分の口まで運ぶことができません。益々躍起になって自分で自分の口まで食べ物を運ぼうとするのですが,躍起になればなるほどうまくいかず,食べ物はポロポロポロポロと下に落ちるばかりでした。ですから地獄にいる人達はいつまで経ってもおなか一杯になることはできず,いつも空腹の状態に苦しまなければなりませんでした。
一方,天国にいる人達はいつもおなか一杯の満足感を味わい,幸せを感じながら過ごしていました。天国にいる人達は,そのなが〜い箸を決して自分のためには使わなかったのです。そのなが〜い箸で食べ物をつまむと,その箸を自分の正面に座っている相手に向かって差しだし,「あなたからどうぞ」と言って相手の口元まで自分の箸を運ぶのでした。テーブルを囲むお互いがみんな同じように,「あなたからどうぞ」という箸の使い方をしています。相手のために働かせる箸をみんなが持っているのでした。決して自分のために使う箸ではなかったのです。相手のために自分を働かせることによって,相手もまた自分のために働いてくれる。天国ではそういうことが自然に行われているのでした。ですから天国にいる人達はいつもおなか一杯で,幸せいっぱいなのでした。』(インターネットより)
誰かに食べさせることで天国になる、他の人に食べさせる所が天国なのだということなんだろう。これが真理なんだろうなと思う。でも本当に誰か食べさせてくれるのだろうと心配もしてしまう不信仰者です、私は。
他人の利益を求める、それはまたイエスの生き方であった。だからパウロはわたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者になりなさい、と言うのだろう。わたしに倣う者になりなさいと言うのもすごいことだと思うけれど、結局はキリストに倣う者となりなさいということになる。
キリストに倣う者になること、結局はそれが神の栄光を現すことになるのだろう。キリストに倣い、キリストを現すこと、それが神の栄光を現すこと、つまり神の栄光とは結局はキリストのことなんじゃないかと思う。
私たちは自由にされていると聖書は繰り返し語る。それは何でも自分のわがままにできるということよりも、他人の利益を求めるようになれる、隣人を大切にしていける、そんな自由を与えられているということだろう。そんな自由をあなたはもう与えられているんだ、と言われているような気がする。