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礼拝メッセージより
「いらっしゃい」 2010年1月3日
聖書:コリントの信徒への手紙一 1章1-9節
手紙
今日からコリントの信徒への手紙を読んでいきたいと思う。手紙である。この手紙で何を伝えようとしているのか、それをそれこそ一字一句もらさず読んでいきたいと願っている。
手紙を貰った時にどんな読み方をするか。嫌いな人からの手紙はろくに読みもしないかもしれないが、好きな人からの手紙は一生懸命に読む。それこそ、一字一句漏らさず。書いていないことまで、行間まで読む。
コリント
ものの本によると『コリントは、紀元前146年、アカイクス将軍による滅亡後、1世紀を経過した紀元44年、新たにローマの植民都市として再建され、アカヤ県の首都として、また港湾・通商都市としてギリシャ全土の枢要な位置を占めた。この教会はパウロによって第2伝道旅行中、おそらく紀元49年頃、諸教会の要として形成され、その際、シルワノやテモテが助けた。構成は、大半が異邦人キリスト者であったが、ユダヤ人も含まれ、社会的に下層の人々、だけでなく、富裕なものもいた。
この手紙は、パウロがコリントの教会からもたらされた種々なる質問に具体的に答える形をとっていることは明瞭である。』とのことだ。
神の教会
こんな長いあいさつみたことない。
コリントにある神の教会へ、と言っている。神の教会なのだ。人間が作ったものではない、神が作ったものだ。教会は人間のあつまりである。しかしそれでも神の教会だというのだ。つまり人間が、仲がいいからとか、意見が合うからとか、何かをするためとか、そういうことで集まってできたのが教会ではない。
神が集めた、それが教会なのだ。私たちは神に集められた一人一人なのだ。
聖なる者
またコリントの教会の人たちを聖なる者とされた人々、と呼んでいる。しかもイエス・キリストによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々、と呼ばれている。
教会に集められた者は、人間的な行い、つまり何か良いことをしたとか、難行苦行をして自分を打ち叩いてきよくなるのではない。きよくなるのは神によってそうされるからなれる。神がきよくしてくださるからきよくなれるのだ。神につながることで初めてきよくされる。神のいないところで神に関係なくきよくはなれない。神につながることがきよいこととも言える。
聖なる者、というと何となく綺麗になることのようなイメージがあるけれど、聖なる者とは、汚れがなくなることではなく、罪がなくなることでも、間違いを犯さない、失敗をしない人間になることではない。罪も汚れも間違いも失敗もいっぱい抱えている、けれど神に顧みられ、赦され、愛されている者、それが聖なる者なのだ。
パウロはコリントの教会の人々をそういう意味で聖なる者と呼んでいる。コリントの教会はいろいろな問題を抱えていたことがこの手紙の中でも書かれている。争いがあったり、不平不満があり、また不道徳とかもあったらしい。さっきも言ったように、この手紙はその問題に対するパウロからの回答である。
にもかかわらずパウロはそのコリント教会の人たちに向かって、聖なる者、と呼びかけている。あなたたちは神の民だと言っているのだ。あなたたちは神によって集められた、召された者なのだ。神が目的を持って呼び出された者なのだ、と呼びかけている。
私たちは教会の中でも自分と人を比べて、何ができるとかできないとか、能力があるとかないとか考える。しかし聖なる者かどうかは、私たち自身が何かを持っているとか持っていないとかいうこととは関係がない。この私たちを神が召された、ただそこにかかっている。それこそが大事、そこに教会ができる。
イエス・キリストによって
そして聖なる者とされた、の前にイエス・キリストによって、とある。イエス・キリストの十字架の死によって私たちは聖なる者とされている。
だから罪を持っているもの同士なのだ。イエス・キリストの十字架によって初めて赦されたもの同士なのだ。イエス・キリストの十字架でなければ償うことのできない罪を持っている者なのだ。そんな者を神は集められた。
教会はそうして集められたものの集まりなのだ。神の憐れみによって赦されているものの集まりなのだ。そこのところを忘れてしまうと、あるいはそこのところを軽く見てしまうといろいろな問題が起こってくるのだろう。
感謝
パウロは4節以下で、感謝している、豊かにされている、と書いている。神がこんな恵みをあたえてくださった、そして最後まで支えて下さり、非の打ち所の無い者として下さると述べている。
神がそうしてくださった、そして神がこれからもそうして下さる。と述べる。この神によって、あなたがたは神の子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのだと。
10節以下ではコリント教会の仲たがいのことに触れる。しかしその前に、パウロは神が招いて下さったことを述べる。神がそうしてくださった、と。
神が招いて、神の子として下さった、だからこそ、それにふさわしくしよう、というのだ。だから仲たがいしないようにしようと。
仲たがいしないようにすることで神が招いてくれる、だから仲良くしよう、と言うのではない。先に神が招いてくれているから、神が恵みを与えてくれているから、だからそのことを大事にしよう、だからその神の恵みに応えていこう、というのだ。
いらっしゃい
神は罪ある者を招いておられる。罪あるままで、そのままで私のもとへいらっしゃいと言われる。あなたの罪は赦されている、イエスの十字架の死によって赦されている、だからもう裁かれることはない、責められることはない、あなたは愛されているのだ、だからそのままで私のもとへ来なさい、と言われている。