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礼拝メッセージより
「正義を」 2009年3月1日
聖書:出エジプト記 23章1-9節
KY
インターネットを見ていると時々面白い話しに出会う。先日もこんな話しを読んだ。ある人が、町中ではよく食べ物やさんなどの前で行列を見かけるけれども、行列が出来る店が必ずしもおいしいわけではなく、実際に食べに行くと全然だめだったことがあった。自分が本当に食べておいしいと思うのではなくて、行列ができることでおいしいと思い込んでいる、思い込まされているのではないか、何てことが書いてあった。
僕も昔からおいしいかどうかよく分からないけど、みんなが美味しいと言うから美味しいのだろうと思うような時が結構あった。美味しい物は誰が食べても美味しい物なんだと思っていた。
だから、あそこの店は美味しいかどうかと聞かれるとすごく困ってしまう。自分が美味しいと思うならば美味しいといえばいいはずなのに、でも後で誰かが誰かがまずかったじゃないか、と言ったらどうしようなんて心配したりするところがある。これはおいしい物、これはまずい物、というのがはっきりしていて、美味しい物をおいしく感じないのは、そう感じない人の方がおかしいような気がしていた。美味しい物と美味しくない物という正しい答えがあって、その答えが自分には分からない、というような気持ちがある。
美味しいかどうかなんてのは人それぞれ何だから、自分にとって美味しい物がみんなにとってもおいしいとは限らず、自分がおいしいと言った物をおいしくなかったと言われることだってある、ということがだんだん分かってきた。分かってはきたけれど、人と違う意見を持つことがまた憚られる気持ちがあって、人にあわせてしまうような、合わせていないと気まずいような気持ちがある。誰かがこれがおいしい、と言う物について、あれはまずいというようなことを言ってはいけないような気持ちがある。
誰かがあそこのはおいしかったという話しをしている時に、私はそれは嫌いだ、私はまずいと思った、なんてことを普通に言う人がいると、そんなこと言っていいんだろうかとびっくりしてしまう。もちろんけんかをするような言い方ではなくてただ単に自分はそう思うということを言っているだけなんだけど、僕にとっては驚きだった。そしてそういうことをさらりと言える人がとても羨ましいなと思う。
KYという言葉がはやったけれど、本当は言いたいのに空気を乱すのではないかと余計な心配をして自分の思うことが言えないこともよくある。本当は反対なのに、周りの空気に押されて言いだせないなんてこともある。
余談だが、先日ある人の子どもが学校でプルタブを集めていて、他の人がそれに協力しましょうというような話しをしていた。プルタブはどれくらい集めたら車椅子と交換してくれるんだろうか、なんて話しをしていた。その中にいて実は僕は、相変わらずプルタブ集めをやっているんだなんてことを思っていた。子どもの通っていた小学校でもやっていて、その頃から疑問があった。どうしてプルタブだけ集めるんだろうと思っていた。アルミを集めるんだからプルタブだけではなくてアルミ缶全部を集めた方が早いじゃないか思っていた。インターネットで調べると、プルタブを集めるというのはかなり昔からあって、昔のプルタブは今と違って開けるとプルタブがすぐ取れてしまう構造になっていたので、プルタブが道ばたなどにいっぱい捨てられていた。それでそのゴミをなくすために、業者さんとも協力してプルタブを集めて車椅子と交換しましょうという運動が起こったようだ。それで時代は変わってプルタブは缶から離れないような構造に変わってプルタブがゴミになることもなくなってきて、プルタブもあまり集まらなくなってきてその業者さんも車椅子と交換するということはやめたそうだ。ところが今度は離れないようにしたのを一所懸命にはずして集めて送ってくる学校がいっぱい出てきて、また車椅子に交換することを再開した、なんていうことだった。でもやっぱり無理矢理プルタブを離す必要はないような気がしてならない。
その辺のことを学校の先生に聞いたこともあったけれども、ただプルタブを集めると車椅子に交換してくれる所があるのでそうしている、という感じだった。もちろん子ども達が何かの目標に向かってみんなで努力するということに対して否定する気はないけれども。折角取れないようなしたプルタブをまた無理して取る意味はあるのかなと疑問に思っている。
とそんなことを、プルタブを集めているという話しを聞きながら、実はこういうことだと言いたい気持ちになりつつ、今ここで言うと一所懸命にしている人に悪いような、その場の空気を壊すような気がして黙って聞いていたわけだ。上手い言い方をすれば言えたのかもしれないけれど、それはおかしい、というような相手を否定するような言い方になってしまいそうな気がして、そうするとこっちも気まずい思いをしそうな気がして、何も言わずにいた。
契約の書
十戒に続いて、十戒を具体的に記している契約の書というものが書かれている。そこには具体的な細かな戒めが記されている。祭壇について、奴隷についてとか、罪を犯した時にどういう罰を受けるのかなんてことも書かれている。目には目、歯には歯、というようなことも出てくる。
今日の箇所の前半では、悪人に加担しちゃいけないとか、多数者に合わせて悪を行ってはならない、なんて言われている。進んで悪人に加担することは多分あまりないと思うので、多分悪人の脅しに屈してか、あるいは今日の後半に出てくる賄賂を貰うかしてその人のためにうそをつくということではないかと思う。そして多数者に追随してということは、一人だけあそこの店はまずいと言いにくいような、あるいはプルタブの話しのように、みんなが賛成しているから自分だけ反対と言うのは憚られるということかなと思う。
そういうことがあってはならない、と言われている。周りに左右されることなく正義をつらぬきなさいということだろう。それは他の人がどう言おうが自分は自分の見たこと感じたことをありのままに証言しなさい、ということなんだと思う。正義と言っても、それは必ずしも私たちに全く間違いがあってはいけないということではないだろうと思う。自分の信念にもとづいて、誠心誠意本当に自分の心にあるところを証言すること、そういう意味での正義を貫くということなんだと思う。自分の見たことを見てないとか知らないとかいうのではなく、そのままに証言すること、周りに流されたり、自分の損得を計算したりするのではなく、ありのままに証言すること、それが大切なことだと言われているようだ。
さらに弱い人を曲げてかばってはならないと言われている。弱い人をかばうという善意であっても、そのことによって本来罪のない者をも罪に定めるようなことになってはいけないのだ、ということなのではないかと思う。
兎に角法廷においては、真実を述べること、それが正義なのだということなんだろうと思う。
でも案外それは結構難しいことかもしれないと思う。時に僕のような優柔不断な、やたらと周りの顔色を伺っているような人間にとっては難しいことだ。
感情に左右されず、正しいことと不正なことをしっかりと判断する目を持っていないといけないということなんだろう。
敵対
そしてそれは自分が敵対する者に対しても不正をしてはいけないということに繋がっているようだ。敵の家畜が迷っているのを見たら連れ戻さないといけないとか、憎む者のろばが荷物の下に倒れていたら一緒に助けないといけないなんてことが言われている。
嫌いなやつのことなんか助けたくないと思うのが世の常。坊主に憎けりゃ袈裟まで憎いというように、嫌いな人間に関係するもの全部が嫌いになることが多い。牧師憎けりゃ何まで憎い、だろうか?
しかし神は敵の家畜も、嫌いな人の家畜も助けなさいというのだ。しかし敵だと思っていたり、嫌いだと思っている時にそんなことできるんだろうか。もうそうなったら敵でも嫌いでもなくなるような気がしてしまう。
そうされた方はもっとそうだろう。そんな親切をされたら敵でも嫌いでもなくなってしまうだろう。相手を助けることで新しい関係が生まれてくるような気がする。案外そうするためにこうしなさいと言われているのかもしれない。
イエスも、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい、と言われている。誰に対しても愛する関係を持ちなさいということのようだ。
しかしそんなことできるんだろうか。敵を愛せるのか。そんなこと言われても愛せない、思う。でも神はそうしろと言われている。きっとそれが正義なのだろう。しかし、、、神の前で唸っている。