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礼拝メッセージより
「関係」 2009年2月22日
聖書:出エジプト記 20章1-17節
信じること
恋は盲目、恋をしたら好きな人以外は見えなくなるなんて話しを聞く。恋してるのに他の人を見てたらまずいかな。
神を信じるということは、神に恋するようなことなんだろうか。十戒の中にも、私以外のものを神としてはいけない、なんてなんだか浮気をしてはいけない、みたいな言葉もある。まるで恋人からのラブレターみたいだ。でも朝から晩までただ私を見つめていなさい、と言っているわけでもない。その辺は恋をするのとは違うみたいだ。私以外のものを神としてはいけない、けれどもあなたの周りの人のことは大事にしないといけない、という。
どうやら神を信じるということは、ただ神と自分との関係を持つということだけではない。十戒の前半は神を神とするように、唯一の神のみを神とするように、そして安息日には仕事をしないで神の日として分けておくように、ということであった。それに続けて後半は人間的な関係をどうすべきなのかということが語られる。父母との関係、隣人との関係をどうすべきなのか、ということが語られる。神を信じるということは、神との関係を大事にすることでもあるし、同時に隣人との関係を大事にすることでもあるのだ。
父母
その中で初めにあなたの父母を敬え、と言われている。そうすれば神が与えられる土地に長く生きることができる、と言うのだ。
でもどうして父母を敬えなのか、不思議な気持ちがしていた。どうして子どもを大切に育てなさい、ではないかのか。
そう思っていたら、もともとの意味は、父母が高齢になっても虐げてはいけないという戒めだった、と聖書教育に書いていた。要するに、年老いて仕事が出来なくなっても、何の役にも立たないと思えても大事にしなさい、ということのようだ。そうするとこれは父母だけの話ではないのかもしれない。私たちは人を役に立つ人間と役に立たない人間、何かができる人間と出来ない人間、というような見方をしがちだけれども、そういう見方をすることが間違っている、ということなのかもしれない。ただそこにいる人を大切にしなさい、ということなんだろう。
逆に言うと、私たちもそう言う見方をされているということなんだろうと思う。私たちも自分が何かができないと意味のない、価値のない人間なんだ、と思いがちだ。お金が稼げる人間が一番価値のある人間のような思いがある。あるいは他の誰もできない特別なことができる人間が価値のある人間のような思いがある。それに比べて私は何もできない、何も持っていない無価値な人間であるかのように思ってしまう。
でも神さまはそうは見ていないようだ。年老いた父母を敬えというのは、そこにいることを大切にしなさい、ということなんだろうと思う。何ができるかが問題ではなく、ただここにいることが大切であるという、そういう見方をしなさいということだろう。なにができるかではなく、ここにいることが大切、そしてそれはまさに神さまがそういう見方で私たちを見ているということなんだろと思う。
むさぼり
それに続いて殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、欲するなと言われる。隣人の命も妻も取ってはならないというのだ。
どうして人を殺してはいけないのか、一時そんなことが話題になったことがある。でもよく考えるとその理由が何なのかというのは難しい。当たり前じゃないか、ということではなくて、これこれこういう理由で殺してはいけない、というのはなかなか難しいことではないかと思う。
聖書では十戒ではただ殺してはならないと言う。きっとそれは、命は神が創られたから、命は神のものだから、だから人間がそれを勝手に奪ってはいけない、ということなのだろう。
続いて姦淫するな、盗むな、偽りの証言をするな、欲するな、とある。姦淫するといことは、そうすることで他の人の結婚を破壊するということらしい。つまり、姦淫も盗みも偽りの証言も、相手の持ち物、相手の人間性、相手の人格を破壊することになり、そうすることはしてはいけない、相手を尊重し、相手の領分を犯すことをしてはならない、ということを言っているようだ。
泥沼
しかし私たちの心の中にはいろいろな欲望が渦巻いている。あれも欲しい、これも欲しいと思う。これが手に入ればどんなに嬉しいだろう、あれを買えばきっと幸せになるに違いないと思う。そして実際にそれを手にすると次第に喜びは減ってきて、今度は次の物が欲しくなってしまう。そしてそんな願望はどうやら終着駅はないみたいだ。物を持つことで自分の物は増えていく。自分の物が増えるときは嬉しいものだ。人に自慢もできる。けれども物を持つことで幸せになるということは結局はないような気がする。人間の欲望は底なし沼のように何でもかんでも飲み込んでいって、これで満足ということはないような気がする。案外何かを手に入れれば入れるほど、欲望は余計に広がっていくのかもしれないと思う。
人の喜びは、物を持つことで得られるのではなく、自分と誰かの関係を持つことで得られるのではないかと思う。
人は神と良好な関係を持つことと同時に、隣人との良好な関係を持つこと、そこに喜びがある。
物を持つことによる喜びとは比べ物にならない喜びがある。だからこそ隣人との関係を大事にしなければならない。
相手のことを省みず自分の欲望だけを追求することで人は相手を傷つける。そして相手を傷つけるだけではなく、自分も自分の欲望に飲み込まれてしまう、自分の欲望に支配されてしまう。人間には誰にもそんな性質があるようだ。わたしはこの十戒を破っていないから大丈夫だ、といえる人はきっといない。イエスは心の中に思うことは罪を犯したことと同じなのだと言った。気が付くと欲望に支配されてしまうのが人間の常なのだ。十戒は、そして聖書の律法は、自分が守れているかどうかの判断基準としてあるというよりも、自分がどういう方向へ進んでいくべきなのか、どんな思いで生きるべきなのか、そのことを教えてくれている、その方向を示してくれているものなのだろう。
そしてイエスはその律法について、一番大事なのは神を愛し隣人を愛することであると言われる。律法で大事なのは、自分が守れているかどうかということではない。自分が合格かどうかが大事なのではない。そうではなく、自分が神を愛し隣人を愛していこうとすることが大事なのだ。自分一人がどうであるかではなく、自分と神、自分と隣人というような関係がどうであるか、それが大事なのだろう。
またイエスは、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と言った。律法と預言者とは結局は旧約聖書のことである。人にしてもらいたいと思うことを人にすること、結局はそれが旧約聖書が言っていることなのだ、というのだ。
私たちはなかなかこのイエスの声が聞こえない。そしていろんな所で争っている。命を奪い合っている。神の名の下で戦争をしているのが私たち人間の現実だ。聖書の語る言葉よりも、自分の欲望や憎しみに縛られているようだ。確かに弱い人間である。憎しみに支配されてしまいやすい。しかしそこで結局泥沼にはまり込んでしまっている。その泥沼から抜け出すように、神はそう言われているのではないか。泥沼から抜け出るために、泥沼にはまらないためにこうしなさい、聖書はそう私たちに告げているのだと思う。
神の声をしっかりと聞いていこう。