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礼拝メッセージより
「悲しむ世界に」 2007年12月23日
聖書:マタイによる福音書 2章13-23節
事件
先日猟銃で人を殺すという事件が日本でもあった。銃を乱射して大勢を殺すという事件が外国であることはよく聞いていたけれど。
その背景にはどんなことがあるのかよくわからないけれど、私たちは実はそんな世界に生きているということかもしれない。
ヘロデ王
当時ユダヤを支配していた王。自分の権力を守るためには何でもする、誰でも殺すような人だったらしい。
彼は王座に着くとまもなく、ユダヤ人の議会であるサンヘドリンの議員たちを殺し、そのあと、300人の議会関係の役人を殺した。また、妻マリアムネとその母アレキサンドラ、長男のアンティパテルとほかの二人の息子、アレキサンデルとアリソトブロスを殺害した。また自分が死ぬ瞬間に、エルサレムの著名な人たちを殺すように命令した。
そういう風にヘロデ王は自分にとって都合の悪くなりそうな人間を片っ端から殺していったようだ。
マタイ2章を見ると、占星術の学者たちは、そんなヘロデの所へやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」といった。
ユダヤ人の王が生まれたと聞いたヘロデはそりゃびっくりしたことだろう。ヘロデ王は不安を抱いたと書かれているように、彼の心の中は不安がいっぱいで、不安と恐れが渦巻いていたじゃないか、なんて思ったりする。
そこでヘロデ王は王として生まれたという者をも殺害しようと計画する。祭司長や律法学者達に、メシアはどこに生まれるかと聞いて、それがベツレヘムだと分かると、それを学者達に教えて、誰かということが分かったら自分も拝みにいきたいから自分に教えてくれと頼む。また星が現れた時期についての情報も学者達から仕入れておいた。なかなか頭がいいし、用意周到といった感じ。
阻止
しかしそんなヘロデ王の目論見は神によって阻止されることとなった。
学者達はベツレヘムでイエスに会うけれども、夢で神のみ告げを受けてヘロデに会わないで帰っていった。
またイエスの父とされたヨセフにも、主の天使が夢で現れて、ヘロデが狙っているのでエジプトへ逃げるようにと言われてエジプトへ逃げた。
学者たちにだまされたと知ったヘロデは、学者達から星が現れた時期を聞いていたことから、ベツレヘム一帯の二歳以下の男の子を全部殺させた。
ベツレヘムは小さな町で、実際に殺害されたとしてもその人数は2,30人ではないかと書かれていた。
たとえ2,30人だとしても、なんともむごい事件だ。この男の子たちや家族にとっては何ともいい迷惑ではないかと思ってしまう。そんなのありなのかと。
憎悪
もし自分が権力を持ったとしたら、独裁者のような立場になって何でも自分の思い通りに出来るとしたらどうなるだろうかと思うことがある。きっと自分に反対する者を蹴落としていって、そしてそんな権力がなくなりそうになったり、そんな不安が襲ってくると余計にひどいことをしてしまいそうだ。このヘロデ王のように片っ端から殺していくかもしれない。そして自分の欲望のままに好き放題するんじゃないかと思う。
そんなどろどろした思いを持っている。
イエスは神の子として、救い主として生まれた。しかしイエスは神聖な清らかな場所に生まれて来たわけではなかった。圧倒的な力を持って、周りの者たちを牛耳るようなこともしなかった。高いところにいて、上からみんなを指図するようなこともしなかった。
イエスは誰にも見向きされないような田舎で生まれた。世の中のほとんどの者に気付かれずに生まれた。
力を持つ者たちが権力を争いあい、そのために苦しめられ迷惑を被る、そして命を狙われる、そんな所に生まれてきた。
人間の憎悪と恐れと不安が渦巻くところに生まれた。そのために人を傷つけ、殺してしまうような、そんな人間のどろどろしたものがうごめくところに生まれた。
神を信じたらそんなどろどろした世界から清らかな世界に行ける、というわけではない。神を信じたら汚いものが全部なくなって綺麗な思いだけになれたらいいと思う。けれどどうもそんなに簡単に綺麗になんてなれそうにもない。神を信じたら憎しみも恨みもなくなる、なんてことはない。
しかしだからこそイエスは人間のそんな憎悪渦巻く世界のただ中に生まれてきたんだろうと思う。不安にさいなまれて人を傷つけてしまうような、そんな者たちの中にイエスは生まれてきた。力を持たないないで、大きな力に揺れ動かされて生きている、理不尽な力によって悲しい思いをさせられている、そんな者たちの中にイエスは生まれてきた。
そんな憎悪渦巻く世界のなかで、どう生きるのか。自分も憎悪を持った中でどう生きればいいのか。それをイエスは伝えてくれた。
イエスは愛することだと言った。私たちは力があれば、力を持てばどうにかなるのではないか。力を持たねばと思う。しかしイエスは愛することだと言った。そのことを私たちに伝えるために、憎しみや悲しみを持つ私たちに伝えるために、憎しみと悲しみの世界の真ん中にイエスは生まれてきた。