聖書:ヨハネによる福音書 9章1-12、35-41節
誰の所為
大学の同級生に脳性麻痺で車椅子にのっている奴がいた。ある時彼の所にどこかの宗教団体がやって来て、あなたが今肢体不自由になっているのはご先祖の因果だ、だから先祖を供養しないといけない、というようなことを言ったのだそうだ。
因果応報
ばちが当たる、とよく言われてきた。悪いことをするとしっぺ返しがあると。また何か不都合があると、自分が何か悪いことをしたことに対する罰が与えられたのではないかと思う。こどもの時からずっとそんなことを言われ続けて来ていると、そんな考えが自然と身体に染み付いているような気がする。そしてその罰が自分の子々孫々まで続くと考える、ということが聖書の時代にもあったようだ。
生まれつき障害を持っているのはなぜなのか、結局それも罰であるという考え方がある。生まれたこども自体は何も悪いことをしていない、できないはずだ、だとすると親か先祖が悪いことをしたからだ、ということになる。そしてそういう考え方はとても理解しやすく納得しやすい。
ひとりの盲人
イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけた。彼は物乞いであったと書かれている。目が見えないことで通りすがりの人に物を貰うことでどうにか生きていたのだろう。
弟子たちは、その人が生まれつき目が見えないのは誰の罪のせいなのか、と聞く。本人なのか、両親なのかと。目が見えないで生まれたのは罪のせいであるというのが大前提なのだ。目が見えないことは罪の結果なのか、罪の結果ではないのかと聞いているのではない。見えないのは罪の結果であるというのがほとんど疑う余地のない、いわば常識だったのだ。だから弟子たちは誰に罪があるのかと聞いた。本人か、両親か、どっちなのだと。
しかしイエスは、本人の罪のためでも両親の罪のためでもないと答えた。周りの人たちにとっては全く想像も出来ないような答えだったのだろうと思う。誰の罪の結果なのかと聞いたのに誰の罪のせいでもないと言うのだ。
そして続けてイエスは、神の業がこの人に現れるためだ、と答える。神の業を現すためにこの人の目が見えないのだというのだ。自分の業を現すためにわざわざこの人の目を見えなくしている、と言っているようだ。そして地面に唾を吐き、その唾で土をこねてその人の目に塗った。えらく汚いやり方である。そしてシロアムの池に行って洗いなさい、と命じる。その人はその通り実行して見えるようになって帰ってきた。
近所の人々
目の見えなかった人の周りに近所の者や、彼が物乞いであったのを見ていた人達が集まってきた。そしてどうして見えるようになったのかと聞く。そしてイエスに指示された通りに行ったことを聞くと、その人はどこにいるのかと問い始める。
自分の知り合いの盲人も治して欲しかったのか。それともただそんなすごいことをするイエスの顔を見てみたかっただけなのか。それともイエスを捕らえようとしていたのか。目の見えなかった人は知りませんと言う。イエスは通りすがりであり、目を洗いに行けと言った後はまたすぐにどこかへ向けて出発していたのだろう。
誰のせい
この盲人の周りの人たちは、目が見えなくなったのは誰のせいなのかと聞いた。誰が悪かったのかと聞いて犯人捜しをしている。でもそうやって犯人を捜してどうしようと思ったのだろうか。
本人の罪のためだと言われたらどうしたのだろうか。両親の罪のせいだといわれたらどうしたのだろうか。それはお前のせいだ、お前に罪があるから目が見えないんだと言いたかったのだろうか。自分の罪のためなんだからしょうがないだろ、とばかにしたかったのだろうか。
あるいは、やはり私が思っていたようにこの人の罪のせいなのだ、私の考えは正しかったと納得したかったのだろうか。
あるいはお前に罪があるからこんなことになっているから、この罪を赦されるように一所懸命信心しなさい、いっぱい献金しなさいなんて自分の宗教に勧誘したかったのだろうか。
イエスは誰のせいだとは言わなかった。誰のせいでもないと言った。神の業がこの人に現れるためだと言った。
神の業が現れるため
しかしこの神の業が現れるため、とはどういうことなのか。そこで奇跡を起こすためなのか。では目が見えるようになるというようなことこそが神の業なのか。そんな奇跡的な癒しだけが神の業なのか。
目の見えなかった人の変化は目が見えるようになるだけ、ではなかったようだ。彼はかつては物乞いをしていた。目が見えないことは罪があることだ、罪が赦されていない者だと考えられていたのあろう。そして罪赦されていない者は社会のまともな一員に入れてもらえてなかったようだ。ほとんど邪魔者のように見られて差別されていたのだろう。だから物乞いをするしかなかったのだろう。ただそこに座っているだけの生活がずっと続いていたのかもしれない。
しかし目が見えるようになったことでどうも彼の顔つきも変わったようだ。近所の人たちも似ているだけだと言う人がいた。ということは相当顔つきもかわったのだろう。彼は後でファリサイ派の人たちとの話し合いの時にも堂々とした態度であった。下手に逆らうと会堂から追放される恐れがあった、そうすると社会からさらに取り残されるということにもなりかねない。非国民になりかねない。けれども彼は自分の意見を主張する。目が見えない時と見えるようになった時の一番大きな違いはそんな彼の心の中だったのかもしれない。見えるとか見えないとかいうことよりも大きな変化だったのではないか。そしてそんなふうに彼に生きる自信を与えること、それこそが神の業だったのではないかと思う。
イエスと出会うこと、それこそが神の業なのかもしれない。イエスは真正面からこの人と向き合っている。周りの者たちはこいつはどうなのか、誰の罪のせいだと分析している。人はいくら分析されても何も変わらない。正面からしっかり見つめられることで変わっていく、生きる力がわいてくる。それこそが神のわざなのだろう。