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礼拝メッセージより
「おそれ」 2006年9月3日
聖書:ルカによる福音書 12章4-7節
恐い
地震雷火事親父という言葉があった。恐いものと代表が地震や雷や火事や親父と言われていた。
その結果がどうなるか分からない、とんでもないことになるかもしれないという不安が恐れとなる。地震が起きても、しっかりした家に住んでいるとそんなに恐れることはない。でもどこが崩れるか分からないような家に住んでいる時はちょっと揺れただけでも恐怖だ。揺れること自体よりも何が起こるか分からない、何か起こるんじゃないかと不安が恐怖へと繋がっているように思う。雷も、火事も予測できない恐ろしさがある。親父はどうなのかな。
そしてどうなるか分からないものと言えば死もそのひとつだ。私たちは死んだことがない。ここにいる誰も経験していない。経験者から話しを聞くことも出来ない。世の中には死んだ人と話が出来るという人もいるみたいで、これをしてくれないと成仏できないとか、まだ世の中に未練があるから天国に行ってないとか、死んだことも分かってなくて彷徨っているとか、いろんなことを言う人がテレビにも出てくるけれど、どうも真実味がない。一体どういうことが起こるのか分からない、なのに確実に自分にもやってくる、死に対する不安や恐れはそんなところにあるような気がする。
ちょっと体の調子が悪くなると、実はこれは大変な病気であと数ヶ月で死ぬなんてことになっているかもしれない、なんて思ったりする。そしたら死ぬまでに何しようかなんて悲劇のヒーローにでもなったかのようにいろいろかっこいいことを想像するけれども、最後に死ぬ瞬間のことを考えるとかっこいいことなんて全然考えられなくなる。
死ぬまでのことを想像している時には家族とかいろんな人が登場する。病気で苦しむかもしれないけど、それでも誰かがそばにいるだろうと思える。しかし死ぬことを想像するときはひとりぼっちになってしまう。ひとりぼっちで死ぬ瞬間を迎えるのだと思うととても淋しくなる。命がなくなる瞬間はどんなことが起こるのか、どんな風になるのか、よくわからない、しかもひとりぼっちだ。そう思うととても恐ろしくなる時がある。
死の恐怖ってのはひとりでその時を迎えないといけないという恐怖なのかもしれないと思う。この世からひとりで出ていかないといけない、という恐怖なのかもしれないと思う。
父なしには
ある時イエスは「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」と言った。
当時はイエスに従うことは命がけというような時代でもあったのでこんなことを言ったのだろう。人間は体を殺すことしかできないけれど、神は地獄に投げ込む権威を持っているから神を恐れなさい、なんてまるで本当の悪党は神なんだから神を恐れよと脅迫してるみたい。
でもそれに続いてイエスは面白いことを言っている。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになることはない。」二アサリオンというのは今のお金で1000円位かな。とすると一羽が200円位の雀も神が忘れることはないということだ。
同じような話しがマタイ10章29節に出てくる。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」ここの「父のお許しがなければ」というのは原文を正確に訳すと「あなたたちの父なしには」となるそうだ。つまり、父なる神なしには地に落ちることはない、落ちる時にもそこには必ず父がいる、雀が死ぬ時には必ず父なる神が共にいるというのだ。一羽200円ほどの雀でさえもそうなのだ。神は雀に対してもそれほど大切なのだ。
あなたがたのことはもっともっと大切なのだという。髪の毛までも一本残らず数えられているなんて言うのだ。一本抜けるたびに、また減ったなんて本当に数えてるのかどうかは知らないけど、それほどに神は私たちを大切に思っているというのだ。雀が死ぬ時だって必ず共にいる神が、あなたたちがどんな時でもひとりぼっちにするわけがない、雀よりももっともっと大事なあなたたちを、生きる時も、死ぬ時も、放っておくわけがない、イエスは私たちに対してもそう言っているのだ。
地獄に投げ込む権威を持つ神を恐れよというのは、地獄に投げ込まれないように神の機嫌を取れということではないだろう。私たちの髪の毛まで数える程に私たちのことを心配しているこの神は、同時に地獄に投げ込む権威を持っている神なのだ。つまりこの神は私たちが生きている時も、死ぬ時も、死んだ後も私たちの神であるということだ。死んだらそこは真っ暗闇の世界で、そこには閻魔大王か誰かが待ちかまえているんじゃないかというようなイメージを持っている。けれども聖書はそんなことは言ってない。私たちのこの神は死の向こうをも支配している神なのだ。私たちと共にいる神は、私たちが死を通る時も、その後もずっと共にいる神なのだ。
だからこそ体を殺す者を恐れるのではなく、神を恐れなさい、この神に従って生きなさいというのだ。