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礼拝メッセージより
説教題:「喜びの知らせ」 2001年12月16日 聖書:ルカによる福音書 2章8-20節
クリスマスは華やかな日。とても楽しい日。確かに。
でも聖書の中のクリスマスの記事はあまり華やかでもきらびやかでもない。
イエスが生まれた時、世界中でお祝いされたわけでもない。そういう点ではとても地味な誕生だった。ひっそりと生まれてきた、といった方がいいくらいだった。皇室の子どもが生まれる時とは随分違う。
イエスは生まれてすぐに飼い葉桶に寝かされていた。つまり家畜の餌の入れ物の中に寝かされていた。とても清潔とはいえないところに生まれた。またそこは家畜によって踏まれるか、あるいは蹴られるかする危険があるところだった。
母マリアと許婚であるヨセフは住民登録をするためにベツレヘムという町へ行かねばならなかった。ナザレからベツレヘムまでは120km位あるそうだ。電車も自動車もない時代にそんな遠くまで、しかももうじき子どもが産まれるというのに出かけねばならなかった。そんな時期に住民登録があるなんてのはほとんど災難みたいなものだ。
しかもベツレヘムに着いてからも7節にあるように、宿屋には彼らの泊まる場所がなかったという。仕方なく家畜小屋に泊まっていたためこんなことになってしまったようだ。旅先での大変な不安な出産だった。こんなひどい出産聞いたことない。そしてイエスは十字架に向かって進んでいく。
ところで、よくイエスの誕生は馬小屋であったと言われるが、聖書には馬小屋で生まれたとは書かれていない。何の小屋か分からない。小屋だとも書かれてはいない。ただ飼い葉桶という言葉が出てくるだけである。飼い葉桶があるところということで家畜小屋だろうと考えられるが、そこにどんな家畜がいたかももちろん書かれていない。馬は戦争に使う貴重な動物でこのイスラエルにはいなかったと考えられるそうだ。西欧の画家はクリスマスの場面に馬を描くことはなく、きまって牛とロバを描くそうだ。実はそこには牛かロバがいた可能性の方が高いらしい。
イエスの誕生の知らせを最初に聞かされたのは羊飼いたちであった。羊飼いという仕事は当時はあまりいい仕事とはみなされていなかったそうだ。医者や弁護士や官僚とはちがう。当時、羊飼いはまともな人間と見られていなかったそうだ。一人前として扱われていなかったそうだ。羊飼いは人口調査の対象にもならず、税金を支払う能力もないと考えられ、一人前の人として認められていなかったそうだ。ほとんど社会からのけ者にされている者たちであった。そんな社会からつまはじきされている者のところへキリストの誕生は真っ先に知らされた。
彼らのところに天使が突然現れる。すると羊飼いたちは恐れたという。非常に恐れた。羊飼いたちは天使の告げる「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」という声を聞いた。きっと彼らは恐れの中でこの言葉を聞いたのだろう。しかも、その後突然天の大軍が加わって、「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」なんて讃美した、と言うんだから余計びっくりしたのではないかと思う。
羊飼いたちの恐れが消えていったのは天使たちが離れていなくなってからだったのではないかと思う。
彼らはイエスの会いに出かける。そして見事に探し当てる。どれくらい探したのか、家畜小屋をしらみつぶしに探したのだろうか。そこに発見するイエスは天使の言うとおり、飼い葉桶に寝ている一人の乳飲み子であった。無力な乳飲み子であった。ただの赤ん坊であった。
羊飼いたちは見聞きしたことが天使の言う通りだったので神をあがめ、讃美しながら帰っていった。羊飼いたちが神をあがめ讃美したのは、この赤ん坊が光り輝くような子どもだったからでもないだろう。この子はごく普通の小さな何もできない赤ん坊だった。天使が知らせてくれなければメシアだとは、キリストだとは分からない、そんな普通の無力な赤ん坊だった。
しかし羊飼いたちは神の知らせてくれたとおりだったことで神をあがめ讃美しながら帰っていったと言う。
しかし羊飼いたちは救い主に、キリストに会っただけで帰っていってしまった。なんだか不思議な気がする。それだけで神をあがめ讃美しながら帰って行った。
私たちは神にいろいろな事を期待する。神が目の前にいるとなると、神を発見したとするといったいどんなことを期待するだろうか。
大きなことから、小さなことまで。これして下さい、あれして下さいとお願いしそうである。あるいは日常的には起きないようなすごいことを見せられれば、顔が光り輝いていたり、生まれてすぐに話しをしたりなんてことでも起きればこれはすごいと納得するのもわかる気がする。
しかし、羊飼いたちが見たものはただの赤ん坊でしかない。ただの普通の赤ん坊でしかない。そしてその赤ん坊を見ただけである。乳飲み子から何かをしてもらおうともしなかった。救い主に接して、彼らは自分の願い事をかなえてもらうように頼みもしなかった。
彼らはただ飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を見ただけなのだ。それだけで彼らは、神をあがめ、讃美しながら帰っていった。彼らは会うだけでよかったようだ。もうそれだけで十分といった感じだ。それ以上のものは必要ないといったようなことかもしれない。
天使の告げられた出来事が実際に起こっていることを彼らは知った。キリストが生まれて飼い葉桶に寝かされているという天使の言葉が本当であることを知った、それだけで羊飼いたちは喜んだ。自分たちのキリストが救い主が生まれたということを知った、それだけで彼らは喜んだ。その事実を知るだけで彼らは満足だった。神が確かに自分たちに働きかけている、神の手の中にいる、神の計画の中にいる、そのことを彼らは喜んだのではないかと思う。自分の願い事を叶えてくれることを私たちは望む。そして世界のあらゆるものを自分の思うように変えてくれることを祈る。そしてそれが叶わないとなると嘆き悲しみ、神を呪う。
社会的には疎外されのけ者にされている羊飼いたちは喜び、讃美しながら帰っていったのだ。彼らの状況が変わったわけではない。何も変わっていない。キリストと出会った後も、彼らのおかれている状況は何も変わっていない。相変わらず社会ののけ者であることには変わりはない。しかしその中で彼らは喜ぶを発見したのだ。それは神に認められるということではないかと思う。神に呼びかけられていること、神に見つめられていること、神からは決して見捨てられてはいないこと、そのことを知った、それが彼らの喜びだったのではないかと思う。
天使が現れたことにも驚き恐れていた羊飼いたちが、神をあがめ讃美するようになった。神は自分たちの間違いを指摘しこらしめるものではなく、自分たちを心配し自分たちのために救い主を送ってくれる、そんなものであったということを知ったのだ。
私たちは弱い存在である。何か少しでも順調に行かなくなったらうろたえてしまう。そして死を迎えるとき、それが自分の死でなくても、そのことで奈落の底へ突き落とされるような絶望感を持つ。
死も、苦難も、失敗もないところに私たちの幸せがあるように考える。しかし、死からも苦難からもそして多分失敗からも逃げられない、避けれない。それが人生だ。死や苦難や、思うようにいかない事に私たちの人生は振り回される。人生とはなんだ、ただむなしい物なのか。ただひとり荒波にもまれるようなものなのか。しかし、その私たちの人生の中に神が介入しておられる。人生が横に流れるとすれば、神は上から垂直に関わってきておられる。それがクリスマスではないか。
いかんともしがたい、なかなか思うようにならない、苦しい事の多い人生、なんだかむなしく感じる人生に、神は上から切り込んできたのだ。
人生を揺さぶるいろいろな出来事に私たちは恐れる。そして神からの介入にも恐れる。神もまた私たちを揺さぶるとすればそれは恐れでもある。羊飼いたちは恐れた。非常に恐れた。しかし天使は恐れるなという。あなたがたのための救い主が生まれたというのだ。
死も苦難もある私たちのこの人生を、全部ひっくるめてなおかつ救う、そんな方が生まれたのだ。自分ではどうにもならないこの人生を根底からすべて支えてくださる方がこられたのだ。
だから羊飼いたちはイエスに会ってもことさらに何かを求めることもなかったのだろう。自分の人生に神が関わっておられること、自分の人生を神が注目しておられることがわかったからだ。彼らにとってはそれがなによりの喜びだったのだ。
生まれたばかりの赤ん坊は飼い葉桶に寝かされていたという。そしてそれは宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからだという。もうじき赤ん坊が生まれそうだという産婦を泊める場所がどこにもなかったというのだ。イエスは生まれる時からのけ者にされていたということらしい。人の優しさが一番必要な時にやさしくされなかった、そんなところにイエスは生まれた。しょうがないよ、宿屋はいっぱいなんだから、と人が邪険にしてのけ者にして、追い出している、そんなところにイエスは生まれた。救い主なんだから一番いいベッドを、一番いい医者を用意されたのではなかった。誰かのためにつまはじきにされるようにして、人から社会からのけ者にされ冷たくあしらわれてイエスは生まれた。そして社会からつまはじきされている羊飼いたちに最初のクリスマスの知らせが届いたのだ。人間社会のいろんな思惑に翻弄されるままにされて生まれてきたようだ。そんな社会が疎外したようなところにイエスは生まれた。誰からも大事にされない、誰もが認めないところにイエスは生まれた。
私たちは社会に適応できない自分をダメだと思っている。社会に認められないとダメだと思っている。社会が認めないようなものを持っている自分のことをダメだと思っている。またいつ社会からつまはじきされやしないか、のけ者にされやしないかと心配している。しかしイエスはそんな誰からも認められず、自分でも認められないと思っている、そういう場所に生まれたのだ。こんな事ではダメだ、こんなことでは誰からも認められないと思っている、そんな人の隣にイエスはおられるのだ。こんな自分は誰からも認められない、一人前ではないと思っている人の隣りにイエスは生まれたのだ。誰からも見放されてしまってひとりぼっちになってしまっている、その人と出会うためにイエスは生まれたのだ。あなたはひとりぼっちではない、私はいつもあなたと共にいる、あなたをいつも愛している、そのことを知らせるためにイエスは生まれたのだ。誰からも認められなくても自分自身でも認められなくても、私は認める、私は見捨てない、私はずっと共にいる、イエスは私たちにもきっとそう語りかけている。
イエスに出会ったからといっても私たちの現実も私たちの状況も何も変わらないかもしれない。しかしイエスに出会うということは、ひとりぼっちではないことを知ることだ。決してひとりぼっちにはならないということを知ることだ。神が私のことも心配していること、私のことも大事に見つめてくれていることを知ることだ。そしてそれは何にも替えられない喜びなのだろう。
羊飼いたちに告げられた言葉は私たちのところにも届いている。彼らが恐れながらも神の言葉を聞いたように、私たちも恐れながらもしっかりと神の言葉を聞いていこう。そして羊飼いたちが喜んだように、私たちもクリスマスの出来事を喜びたいと思う。