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礼拝メッセージより
説教題:「ことば」 2001年12月9日 聖書:ヨハネによる福音書 1章1-18節
言とはなんぞや。結論から言うとイエス・キリスト
1.はじめに言があった。
世のはじめから天地がつくられる前からあった。
創世記の1章1節には「初めに、神は天地を創造された。」とある。このヨハネによる福音書は、この創世記の言う初めと同じ初めにこの言がもうすでにそこにあった、と言う。この世が造られる初めにすでにそこにあった、と言う。
2.神と共にあった。
神と共にあった、ということは神とは別のものであった、ということになる。しかし全く別々にあったのではなく共にあった。
3.神であった。
言は神とは別でありつつ、しかしやはり神であったという。イエスは父なる神とは全く同じではないが、やはり神であり神としての性質、人格、本質をもっている。
4.万物は言によって成った。世界はキリストによってできた。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」(コロサイ1:16)
すべてのものはキリストによってできたということは、この世界はキリストの世界、キリストとの関係によって営まれる世界。世界はキリストのもの。神のもの。だから世界はキリストとの関係を持つことができるし、持たねばならない。キリストとの関係の中で生きるのがこの世界に生きるものの正しい姿ということになる。
またキリストが全ての物を造ったということは、私たちに関わるものすべてがそのまま神から造られたものでもあるということだ。私たち自身がキリストに造られたということだ。私たちがどこにいても、どんな時も全部神との関係の中にあるということだ。神から離れて、神との関係のない時を過ごす、神との関係のない所にいる、ということはないということだ。生きるということは神との関係の中にいることであって、神との関係のないところで生きるということはあり得ないということだ。
5.この言の内に命があった。
言の内に命があった。言によってこの命を与えられる。命の元はここにある、ということだろう。
6.命は人間を照らす光。イエスキリストが光である。そしてその光は暗闇の中で輝いている。暗闇の中で光を見つけることの喜びを思う。実際に物理的な暗闇も余り気持ちのいいものではないが、人生の暗闇に遭遇するとどうしようもなくなる。全く動けなくなってしまう。どうしていいのか、分からない。しかし、イエスは私たちの人生の暗闇の中で燦然と輝いている。イエスはまたすべての人を照らす光である。
7.言は肉体となった。
その言が肉体となって私たち人間の世界に来た、という。神が人間のために生き、かつ死ぬために地上に来られた。
この福音書の著者は難しい言葉でイエス・キリストのことを説明しようとしている。なんだか分からないところもあるが。しかしとにかく、イエス・キリストは世界が造られる時からすでにいた神であり、父なる神とは同じではないがやはり神であり、人間を照らす光を持ち、すべての人を照らす。その神であるイエス・キリストが地上に来られた、そして自分を受け入れるものに神の子となる資格を与えられた、と言うのだ。
ただイエスを受け入れることで、その人に神の子となる資格を与えられたのだ。その人がいいことをしたからではなく、言いつけを守ったからでもなく、人より優れた何かを持っているからでもなく、そんなご褒美として神の子としてくださるのではない。人が神の子とされるのはただ神からの賜物、贈り物なのだ。その贈り物を受け取るかどうかなのだ。受け取る者は神の子とされるということだ。
それにしても何故に言なのか。なぜイエス・キリストが言なのか。よく分からない。
しかし今私たちはイエスと言として接している。聖書の言葉を通して、イエスの言と接している。そしてこのイエスの言はそのままイエス自身でもあるように思う。
神が、イエスが私たちを愛している、大事に思っているということも、神の手の中に抱きしめられるというような仕方ではなく、イエスの言葉として知らされている。
私たちはイエスと顔と顔を合わせて話しをするようなことはできない。でもイエスの言を聞くことで私たちはイエスと会っているともいえるのではないか。
言葉は紙に書けばただの文字であり、話せばただの音である。でもその言葉の中にはその言葉を発する者の気持ちが込められていたり、その言葉に愛が込められていたりもする。そしてその言葉を読み、また聞くことで私たちは一喜一憂することがある。それはその言葉の中に相手の気持ちや愛などがあるからだろう。私たちの間でも言葉によって誰かと会うということがあるように思う。
私たちは聖書を通してイエスの言葉に出会う、それはまさにイエスと会っているようなものだ。その言葉はイエスそのものとも言えるようなものだ。
だからイエスの言葉を聞くときは、それはイエスのすぐそばにいるようなものだ。イエスの言葉を聞くということは、イエスと面と向かって話しをしているようなものだ。
万物を造った神であるイエスとそのようにして会うことができるのだ。
聖書はただの書物である、といえばその通りであるが、そこでイエスと会うこともできる、そんな書物でもある。誰かが聖書は神からのラブレターだ、なんてくさいことを言っていたがしかしその通りだと思う。いくらいっぱいラブレターを貰っても、それを読まなければ嬉しくもなんともない。そこに込められた相手の思いを感じることがなければそれもただの文字でしかない。それではラブレターも紙についたただの染みでしかない。
聖書も読まなければイエスとは出会えない。聖書を枕にして寝てみてもだめだ。この中の言葉を通して私たちは神に出会い、イエスに出会い、そこから私たちは喜びや平安や希望、そして愛を受けることが出来るのだろう。イエスはそんな言として私たちの中に入ってこられるのだと思う。
ことば
ヨハネにとってこの言は生きる力であった。あるいは命そのものであった。
ヨハネは語る。「初めに言があった。まず初めに言があった。人間の考え、人間の力、能力よりも先に、まず初めに言があった。まず神が私たちとこの世界に働きかけた。神の意思、神の語りかけ、神の働きかけがあったのだ。この神の意思と力をあらわす存在がイエスだったのだ。
人間の思い、努力、業績が問題ではない。それよりも前に神の意思があったのだ。根源にあるのは神の言葉、神の意思なのだ。神の人間に対する、人間ひとりひとりに対する熱い思い、それが根源にあるのだ。それが神の愛ということだろう。
神が私たちを愛するという。しかしそれはただ神が私たちのことを好きであるというようなことではないのだろう。ただ単に私たちのことを気に入っているというようなことでもないのだろう。神は私たちを大事にするという意志を持っているということなのだ。何があっても見捨てないという意志を持っているということなのだ。どこまでも共にいるという意志を持っているということだ。神は徹底的に私たちを支えるという意志を持っている、それが神が私たちを愛するということなのだろう。私たちは相手が自分の気に入るような時には好きになり、いやな面を見ると嫌いになったりする。そして神も自分に対してそんな風に見ているように思うことがあるように思う。こんなことでは神に愛されない、見捨てられてしまう、愛想を尽かされているに違いない、なんて思う。あるいはいつかそんな風に捨てられてひとりぼっちになってしまうのではないか、と心配する。そしてまた自分のだらしなさやいやさを自分自身で責める。
けれども神は私たちがどんな時でも、どんなになってもきっと見捨てない。いつまでも関わり続ける、どこまでも支え続ける。それが神の愛なのだと思う。
子どもと認められるかどうか、こんなことしたら駄目だと言われるかもしれない、なんて思いながら過ごすことは大変なことだ。合格するかどうかいつも見張られているとしたらとてもしんどく不安なことだ。合格したら神の子とをしてやる、なんていう思いで毎日を生きることは大変なことだろう。
しかし神はそんなことは言わない。お前を神の子とするのだ、お前を愛しているのだ、というのだ。愛しているのだから、安心して生きなさい、心配することなく生きなさい、神の子とされているのだから神の子として生きなさい、神の子にふさわしく生きなさい、そう言われているのだろう。
その神の思いを具体的に現しているのがイエス・キリストなのだ。言は肉となって私たちの間に宿られたという。いろいろな弱さを持つ肉となったという。いろんなことに傷つきつまずき、悩み苦しむ、それが肉である私たちの生き様である。体の弱さを持ちつつ、あるいは精神の弱さを持ちつつ私たちは生きている。そのためにいろんな痛みを経験している。イエス・キリストはそんな肉となって私たちの間に宿られたというのだ。
イエス・キリストは天地創造の前からいる神でありつつ、肉となって私たちの所へ来てくれたというのだ。重荷を抱えつつ苦しみつつ生きている、そこへ来て下さったのだ。イエス・キリストは高い高い天から私たちを見下ろしているというよりも、私たちの足下から私たちを支えてくださっているのだろう。
出会い
この福音書の著者はこのイエスとの出会った。そして彼にとってはイエスこそが神であり光であり命であったのだ。そしてイエスとの出会いが彼にとっては恵みだったのだ。イエスと出会うことこそが恵みそのものだったのだろう。何かを貰えるからとか、何かをして貰えるから好きであるといような関係ではなく、ただ共にいることが喜びであり、恵みである、そんなイエスとの関係をこの著者は持ったのだと思う。
私たちは神に対して、これをこうしてくれ、これを与えてくれ、ここをこうしてといっぱいして貰うことばかりを願っている。そして何もしてくれないと嘆いている。けれども恋人とは、本当に好きな人とはただ一緒にいることだけで十分嬉しくて、相手から何かしてくれるかどうかなんてのは二の次だと思う。神と一緒にいること、共にいること事態が喜びとなり恵みとなる、そんな出会いを神は私たちに求めているのかもしれない。そんな関係を私たちも持っていたいと思う。