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礼拝メッセージより
説教題:「出会い」 2001年12月2日 聖書:士師記 17章6-13節
不安
人は誰も不安を抱えて生きている。もちろんその度合いはさまざまであるが。大きな不安をいつも抱えたまま、いろんなことに心配し、びくびくしながら生きている人もいる。
何をするにしても、自信をもってやっていくことと、不安を抱えてやっていくことでは違いが出る。これで大丈夫だと思いながらすることと、これでいいんだろうか、駄目かも知れない、と思いながらすることでは同じことをするにしてもその成果も本人の疲れもきっと全然違うだろう。
昔テレビで面白い実験をしていた。ある人たちを二つのグループに分けて、同じ作業をしてどれくらいのことが出来るかという実験だった。一つのグループはグループの監督が厳しい顔をして、余計なことはいっさいしないで、間違った時には厳しくしかられるような、ただ黙々と仕事してますというようなグループ。もう片方はやっていることを出来るだけほめて、時々おかしなことも言いつつ笑いながらやっているような和やかな雰囲気でやっているグループ。二つのグループで同じ作業をして、結果は厳格なグループよりも和やかなグループの方が多くのことをしていたというものだった。
人は自分のこと、自分のやっていることを誉められ認められることで安心し自信を持てるのだろう。そうすることで自分の力を十分に発揮することができるのだろう。
だからお前も自信を持てばいいんだ、自信を持てよ、と言うことがある。言うことはたやすいが、実際その自信を持てないからこそ苦しんでいるわけだ。自信を持てないという人に対して自信を持てというのは、俺が自信を持てと言うのにどうして持てないんだ、と言ってその人を責めてしまうことにもなりかねない。一体人が自信を持つと言うことはどういうことなのか、どうすれば自信が持てるのだろうか。
王がなく
この当時は王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた時代であった。社会的なまとまりもなく、宗教的にもまとまりのない時代だったのだろう。
ベツレヘム
そのころユダのベツレヘムにひとりの若者がいた。ベツレヘムはエルサレムの南約8km。パンの家という意味を持つ地名。エフラタは肥沃な土地とい意味がある。裕福な町を暗示している。
レビ人
この若者はレビ人であると言われている。レビ人とは本来祭司のつとめを持つ部族。彼らは土地を与えられていない。もっぱら祭司を勤めとしていた。神に犠牲を捧げることが彼らの務めであった。そしてそれは民と神との仲立ちをするという大切な務めであった。神に犠牲をささげることで、自分の罪を赦してもらう、犠牲となる動物を自分の身代わりとして、つまり自分が殺されるべきところを動物の命を差し出すことで自分の命を赦して貰うということだ。そうすることで神との関係を正しく持ち続けていくということのようだ。そんな大切な務めを任されていたのがレビ人だった。
若者
レビ人とされていることから、レビの仕事、つまり祭司の仕事をしていたのだろう。そしてこの人は若者であったと言う。祭司となるのは民数記によると30歳とか25歳とかになってからとされているので、きっとそのくらいの年齢だったのだろう。
彼はベツレヘムを離れて適当な奇留地を求めていた。ベツレヘムで挫折し、自分の居場所を、つまり祭司としてしっかりとやっていける場所を探していたのだろう。自分がしっかりと仕事をできる場所を捜し求めていた、自分が祭司として確信し安心して勤めを果たしていける場所を探していたのだろう。そしてそれは自分を祭司として認めてくれるところということでもあったのだと思う。
彼はエフライムの山地にあるミカという人の家に来た。そこでミカは若者に、自分の家で祭司となってくれ、あなたには年に銀十シェケル、衣服一揃い、および食料を差し上げます、と言った。是非自分の家に来てくれ、衣食住を心配する必要のないようにすると約束したようだ。
若者にとってその報酬はどれほどのものだったのだろうか。あるいは十分すぎる報酬だったのかも知れない。しかしそれだけのものを用意しているから自分のところに来てくれと言われることで若者は自分をそれだけの価値のあるものと認めてくれているということを知ったことだろう。そうされることで彼は自分はそれだけの大切な存在であることを認めることができたことだろう。
幸せに
山地族の長であったミカは、若者を迎えることで主がわたしを幸せにしてくださることがわかった、という。この若者が祭司としての職務を十分にはたすことができるようになったということを意味しているのであろう。
ミカはこの若者を大切な大事な祭司として接している。今日の少し前のところを見ると、ミカはそれ以前は自分の息子を際しにしていたと書かれている。ということはミカは若者から見れば父親の相当するような年齢だったのだと思う。ミカにとっては息子のような年齢の者を大事な大事な祭司だとして接し、大事な者としての待遇をしたということだろう。だからこの若者は十分な働きが出来たのではないかと思う。
もちろんミカも若者もただ純粋なだけの人間だった訳ではなくて、いろんな思いを持っていたらしい。前後の箇所を見ていくといろんな打算的な面を見せるところもあるようだ。しかしそんな人間も、大事に扱われることでそのような人間になっていくということは確かなようだ。
ミカは若者の働きを見てからそれに見合った報酬を与えようとしたわけではなかった。一人前の祭司だと判断したらそれ相応の報酬を与えようと言ったわけではなかった。何かをする前からすでに一人前の祭司だと認めているようだ。最初から一人前の祭司として話をしているようだ。そういう風に一人前として扱われることで、一人前として処遇されることで、この若者は一人前となっていったのではないかと思う。そして一人前の働き、あるいはそれ以上の働きをしていったのではないかと思う。だからミカは、主がわたしを幸せにすることが分かった、というようなことになったのだろう。
クリスマス
ミカは若者を受け入れた。ベツレヘムという町で傷つき、田舎へと流れてきた若者を受け入れ、立派な祭司として接した。これは神が私たちを受け入れることと同じようなことだろう。神は私たちをあるがままで全面的に受け止めてくれている。私たちを大事な神の子として受け入れてくれている。私たちは自分のことを駄目だと思い、まだまだ足りないことだらけだと思い、だからもっと立派にならなければ、もっといろんなことができなければ、もっときよくならなければ神は認めてくれないと思ってしまう。けれども神はありのままの私たちを受け止め愛してくれているのだ。お前は大事なのだ、お前はかけがえのない大事な一人なのだ、と言ってくれているのだ。
何ができるか、何を持っているか、どんな人間であるか、私たちはいろんな心配なことがある。しかしそんなことに関係なく、神はただ私たちの存在そのものを認めてくれている。神は私たちの根底から私たちを支えていてくれる。
クリスマス、それは神が私たちのことをどれほど見つめ、関心を持ち、愛しているか、そのことを知る時なのだろうと思う。イエスはベツレヘムに生まれたという。若者が挫折し、希望を見いだすことができずにいた町にイエスは生まれた。私たちが失望しうなだれるしかないところ、まさにそこにイエスは生まれた。そして今も私たちと共にいてくれているのだ。私たちが嘆き悲しみ絶望する、すぐ側にイエスはいてくれるのだ。何をどうしていいか分からなくうずくまるしかないような時にも、私たちをしっかりと支えていてくれる、イエスはそんな仕方で私たちのそばにいてくれる。クリスマスはそんなイエスを喜ぶ時なのだ。