前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「新たにされて」 2001年11月25日 聖書:エフェソの信徒への手紙 4章17-24節
異邦人
「異邦人のように歩むな」、とは異邦人を拒否しているのではない。3:6には、「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる」とある。異邦人が駄目な人間でキリスト者が優れた人間であると言っているのではなく、神を知らない者のように歩むな、神を知っているのに知らない者のように、知らないときのように歩むとはどうしたことか、というようなことを言っているのだろう。
今は神を知っているのに、神に知られているのに、どうして神を知らなかった時のような歩みをするのか、と言うのだ。ガラテヤ4:9「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」
そしてそのかつて神を知らなかった時はどういう状態であったかというと、愚かな考えに従って歩み、知性は暗く、無知と心のかたくなさのために、神の命から遠く離れている、そんな状態。また無感覚になって放縦な生活をして、あらゆるふしだらな行いにふけっている状態であるというのだ。
私たちはいろんな思いを持つ。時に悲しみ、苦しみ、あるいは怒り、嘆く。そしてそんな思いに逆に縛り付けられてしまうことが多い。
こんな話しを聞いたことがある。教会の中であるとき突然、あなたを赦します、ということを聞かされた、と言うのだ。本人にはそんなことをどうして言われるのか思い当たる節もなくってびっくりしたそうだ。赦す、と言ったその人は、赦しなさいというキリストの言葉を実行したということかもしれないが、実は赦すということで、そう言った本人自身が自由にされているのではないか、と後で思った。あの人のあのことが気に入らない、という思い、あの人のあそこは赦せない、という思いをずっと引きずったままでいることは大変なことだ。大変辛くしんどいことだ。そしてそう思うことで、思い続けることで逆にそんな思いに縛り付けられているのではないかと思う。あなたを赦します、ということで、赦せないという思いから解放されるということになったのではないかと思う。赦します、というのは、案外そういわれる人のためよりも、それを言う人自身のためなのかもしれないと思う。
キリストは愛しなさい、赦しなさい、と言われている。それは悪いことをした相手のためであるだけではなく、それよりも私たち自身のためでもあるのかもしれないと思う。私たちは心の中からいろんな思いが生まれる。いやな思いも生まれる。いやな思いを引きずったままいることがある。しかしそんな時、私たちはそんないやな思いに私たち自身が縛り付けられてしまっているのかもしれないと思う。
また私たちはいろんな欲望を持っている。その欲望の赴くままに生きることが幸せなのだと思うようなところがあるのではないか。欲望がかなえられることを願い、それがかなえられることが幸せなことだと思うことがある。しかし実はどろどろした欲望を抱えてその欲望に押さえつけられてしまっているような面があるように思う。欲望が叶ったときにも、満足できず、さらに大きな次の欲望が生まれるような、そんな欲望に捕らわれてしまっているようなこともある。
お金をいっぱい貯めることを目指していてもほとんど尽きることがないようだ。少し前に、テレビで一所懸命にお金を貯める人のことが出ていた。食べるものも惜しんでまともな食事もせず、アパート代も惜しんで捨ててあった車の中で寝起きして、働いたお金を出来るだけ使わず、まとまったお金になったら一万円札に換えて、一万円札は決して使わないようにしていた、そしてそのため多お金を肌身離さず持っていたなんて言っていた。その人が300万円だったかを溜めたころ、パン屋の前でどうしてもパンが欲しくなり、でも万札は使えないで、300万円を持ったままパンを盗んだそうだ。
私たちはいろんなものを一所懸命に持とうとする。お金や名誉や名声や学歴や業績や、いろんなものをいっぱい持つことを目指している面があるのではないか。そしてひたすらいっぱい持つことを目指して、そのために逆にそれに縛られてしまっているような面があるのではないか、と思う。あるいはまた、自分の正しさを一所懸命に求めるところがある。自分がいかに正しいか、自分がいけに立派か、そしてそういう面を一所懸命に守ろうとするところがあるように思う。そうすると人の間違いや人の失敗がやたらと気になり、その人を駄目な人だという思いでしか見られなくなってしまったりする。逆に自分が正しくなければいけないのだ、というような思いに捕らわれているようなこともあるのではないか。そうすると自分が間違ったりしくじったりしたときに、あんなことしなければよかった、もっとこうすればよかったといつまでもそのことを後悔したり、なんて自分は駄目なのかと自分をやたらと責めたりする。
自分が何もかも抱え込むことで、財産も名誉も業績も正しさも、自分が全部持っていなければいけないならば私たちは疲れてしまうだろう。それを必死に守らなければならないと思うとき、周りは敵だらけになってしまうだろう。
キリスト
エフェソの手紙の著者は、「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」と言う。あなた達はキリストのことを学んだではないか、キリストのことを知っているではないか、キリストの言葉を聞いているではないか、と言う。
キリストは、愛しなさい、赦しなさい、いたわりなさい、と言う。私たちは自分がいろんなものを自分の物として、いっぱい溜め込んで、一杯もつことを目指す。けれどもキリストは逆に、自分の持っているものを与えなさい、と言われているようだ。自分の財産も名誉も正しさも握りしめてないで離しなさい、と言われているようだ。貧しい者に施しなさいと言われる。間違っている者に対しても、自分の正しさにしがみついて相手を責めるのではなく、相手を赦しなさいと言われているのではないか。
受けるよりも与える方が幸いである、とイエスは言われた。自分がいっぱいいろんなものを持つことよりも、そしてそれにしがみついていくことよりも、どんどん放して与える方が幸いなのだという。あるいはまたパウロの手紙の中では、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい、とも言われている。共に喜び共に泣くためには、その相手と同じ所に立たなければならない。自分の砦から出ていってその人のところへ行かなければならない。自分の砦にしがみついてはそれはできない。砦に縛り付けられていては外に出ていくことはできない。
新たに
キリストはいろんな思いに縛り付けられている私たちに語りかけ教えてくださったではないか、キリストは私たちを解放してくださったではないか、私たちを自由にしてくださったではないか、と著者は語っているようだ。だから、以前のような生き方をしないで新しい生き方を、情欲に迷わされるのではなくて、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけようではないか、と勧める。
自分にしがみつくのではなく、自分の持っているもの、お金や名誉や業績やあるいは自分の正しさにしがみつくのではなく、それを頼りに生きるのではなく、キリストを頼りとして、キリストにしがみついて生きるようにと勧めている。キリストが自分を愛し憐れんでくれたように、自分も愛と憐れみを持って生きるように、そんな関係を持って生きるように、と言われている。
私たちは一人で生きているわけではないし、一人では生きていけない。周りとのいろんな関係の中で生きている。私たちはどんな関係を持とうとしているのか。いろんなものを奪い合うような関係なのか。どっちが多く持っているか、どっちが正しいかを競い合うような関係なのか。それともいろんなものを与え合う関係なのか。
そんな隣人との関係を大事にすることは神との関係を大事にすることでもある、と言うのだ。
マタイ25:31〜
最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである、と言うのだ。
マザーテレサの映画で、彼女がこの人たちにしているのはキリストにしていることなのだ、と言っていた。何をおかしなことを言っているのかと思ったがそうかもしれないと思う。
そんなのたれ死にするようなことをしたのはこの人の責任じゃないか、と私たちは思ってしまう。苦しい思いをしている人を見ても、それは罰なのだ、この人がこういう悪いことを、おかしなことをしたからだ、と思ってしまう。間違ったことをした人が苦しい思いをしても当然だと思う。私たちはそうやって自分の砦に、自分の正しさにしがみつき、逆に縛り付けられて、そんな人たちとの関係を持てないでいるのかもしれない。そしてそれはキリストとの関係をも持てないでいるということかもしれないのだ。
キリストの言葉に従って、キリストに従うこと、そこに喜びと平安がある。そしてそれは同時に隣人との愛と憐れみの関係を持つことでもある。
私たちを縛り付けるあらゆるものから、キリストは私たちを解放してくださった。だから私たちもキリストがそうであったように、愛と憐れみの手をさしのべていきたいと思う。
心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着けるように、と言われている。神は私を新たにしてくれるだろうかと思う。しかしもうすでに私たちは新たにされているのだ。コリントの信徒への手紙二5章17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
新しくされているのだから、そのように生きなさいと言われている。神によって新しくされ、新しい人を身に着けている、だからそれにふさわしく真理に基づいた正しい生活を送ろうではないか、キリストがそうであったように愛と憐れみを持って生きていこうではないか、何者にもとらわれず、ただキリストに従っていこうではないか、この手紙はそう勧めているようだ。