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礼拝メッセージより
説教題:「一つとなること」 2001年11月18日 聖書:エフェソの信徒への手紙 4章1-16節
ふさわしく
最近のテレビは素人のようなタレントが多い。でもずっとタレントをやっていると、それなりに様になってくる。
神に招かれたのですから、招きにふさわしく歩みなさいと言われる。神に招かれた、だからそれにふさわしく、というのだ。先ずは神に招かれたというのだ。只神に招かれたのだ。招かれるに価する何かがあったから招かれたというわけではなかったらしい。招かれるに価しない、招かれるにふさわしくない、なのに招かれたのだ。
私たちに愛されるような価値があったから神に愛されているのではない。愛される価値もない者である、にもかかわらず愛されているのだ。先に神の招きがある、神の愛があるのだ。
招かれる理由はない、けれども招かれた、だから招かれた者として、招かれるにふさわしく歩みなさい、というのだ。
そしてそのふさわしいこととは、高ぶらず、柔和で、寛容の心を持ち、愛を持って互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つこと。
しかしそんなこと言われても、私にはできないことだ、と思ってしまう。そんな気持ちにはなれない、と思ってしまう。そして私は失格だと思ってしまう。
この中に愛を持って、という言葉がある。ギリシャ語には日本語の愛に当たる言葉が4つあるそうだ。一つはエロス、これは男女間の愛で性的な感情を含む愛。二つ目にフィリア、これはとても親しい間柄に存在するあたたかみのある愛情。三つ目にストルゲー、これは特に家族愛にあたるもの。四つ目にアガペー、これが神の愛の時に使われる愛、聖書が愛しなさいと言うときに使われる愛。この愛を持って、と言う時に使われる愛、それがアガペーの愛。
アガペーの愛とは、相手に何ができるか、何をしてくれるかというようなこととは関係なく、その人にとって一番いいことを望むということ。相手が自分に害を加えて、自分を非難しても、相手に親切心を持ち続けるというようなこと。だからこのアガペーの愛は、相手が好きかどうかというような感情だけではないということだ。自分のお気に入りの人や、家族に対しては自然と愛情が沸き上がってくる。しかし気に入らないような人をも、いやな人をも大事にしていこうとする思い、それがアガペーの愛ということだ。だからこの愛は相手が好きになったり嫌いになったりする感情によって、愛したり愛さなかったりするようなものではない。この愛は感情よりも意志なのだと思う。相手を大事にする、という意志であり決意、相手がどうあろうと気に入ろうと気に入るまいと、自分に好意的であろうとなかろうと、自分の期待するような者であろうとなかろうと愛する、そんな愛なのだ。自分でそうすると決めることで生まれる愛、それがアガペーの愛なのだ。
神が私たちを愛すると聖書は言う。それも、神が私たちを愛する、大事にすると決意したということなのだ。私たちが何かを持っているからでも、私たちが何かが出来るからでもない。私たちが優れているからでも、私たちが素直だからでもない。私たちには何もない、罪に満ちている者でしかない。しかしこんな私たちを神は愛すると決めたのだ。ふさわしくないけれども、全くふさわしくないけれども愛すると決めたのだ。ふさわしくないけれども神にまねかれているのだ。だから招かれた者としてふさわしくなりなさい、と言われているのだ。
「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」なんてもちろん大変なことだ。そう簡単にできそうもない、簡単にできないことだろう。しかし出来なくて当然かもしれない。ふさわしくない者を神は招いたのだから、招かれた時にはふさわしくないままだ。そして招かれた後に少しずつふさわしい者とされていくのだ。
私たちはこんなことできないよ、と思ってしまう。でも神はできる、と言われているのかもしれない。自転車に乗れない者が、乗れない乗れない、と言っていつまでも自転車に触らなければいつまでも乗れない。と同じように私たちも聖書の言葉を聞いても、出来ない出来ないと言って放っておくことが多いのかもしれない。けれども神は、あなたは出来る、あなたはそうなるのだ、あなたはそういう人間なのだと言われているのかもしれないと思う。
一つ
そうやって神に招かれている者として、招かれるにふさわしい者として見られていることによって、私たちは一つとなると言われる。
体は一つ、霊は一つ、主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ、父なる神は唯一であるという。神は、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられる。と言う。
つまり私たちは父なる神を通して、父なる神につながっているというところで一つとなっているということ。
一つとなるということと、同じであるということとは別の話である。私たち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って恵が与えられている、というのだ。賜物のはかりにしたがって、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたというのだ。
賜物のはかりとはどういうものかと思うととても興味深いが、そのはかりに従ってみんなに恵みが与えられているという。そしてその恵みは、ひとりひとりがそれぞれの奉仕をするように与えられているものなのだ。
教会はそれぞれの奉仕によって生きているものなのだという。キリストをかしらとして、私たちひとりひとりがそれぞれの体となっている生き物。それが教会なのだ。だから一人一人がそれぞれに与えられた務めを果たすことで初めて教会は生きていける。
だから教会は誰かが偉いわけではない。牧師が偉いわけでもない、目立つ奉仕をするものが偉いわけでもない。それぞれにみんなが大事なのだ。人が指を少し怪我するだけで生活に支障をきたしたりするように、すべてが大事なものなのだ。
私たちは神からそんな大事な者とされ、大事な者とみなされ、大事な者と扱われている。