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礼拝メッセージより
説教題:「愛に立つ」 2001年11月11日 聖書:エフェソの信徒への手紙 3章14-21節
内なる人
私たちは外なる人が守られることを祈ることが多い。美人であったりハンサムであったりすること、健康であること、それなりの仕事や地位についていること、それなりに給料を稼いでいること、友だちをいっぱいもつこと、そんなことを求める。
教会についても、人数が多くて、増えていて、財政的にも裕福で、いつもいろんな活動をいっぱい行っていて、ということを求めることが多い。
しかしパウロは内なる人を強めてくれることを祈っている。人間が自分の力で自分を強めるのではなく、父なる神が、豊かな栄光に従い、その霊により、力をもって内なる人を強めてくれるようにと祈っているというのだ。
私たちの外なる人はだんだんと衰えていく。年を取るとそれまでできていたことが出来なくなってくる。階段を登るのが辛くなったり、記憶力が悪くなったり、それまで出来ていたいろんなことが出来なくなっていく。外なる人としては私たちはどんどん朽ちていってしまうしかない。
しかし内なる人はそんなものではない。神の力によって強くされていくのだ。コリントの信徒への手紙二 4:16 「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」外なる人は年を取るに従いだんだんと衰えていく、しかし内なる人は毎日新しくされていく、というのだ。
内住
続いてパウロの祈りは、信仰によってあなたがたの心の中にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように、というものだ。キリストが心に住むように、ということをパウロは願っている。
私たちの信仰とは、キリストが私たちの心の中に住むことを目指すものらしい。私たちが自分をうち叩いて、努力して精進して何者か、偉大な人間か何かになること、何者にも惑わされることのないような、何にも揺るがされることのないような強い人間になることを目指しているのではない。そうなれば合格、そうでなければ不合格、というようなものではない。
私たちがたとえ弱く無力でも、罪深くても、実際その通りだけれども、私たちの心の中にキリストを迎えること、キリストに住んで貰うこと、それが私たちの信仰である。そしてこんな私たちのそのままを愛し、そのままを受け止めてくれていることを聞いていくこと、お前が大事だ、お前を愛している、というその声を、そのキリストの思いを知ること、そしてそれを支えとして生きていくこと、それが私たちの信仰だ。キリストが私たちを愛しているから、何とかして救いたいから十字架で私たちのために死なれたこと、そのことから私たちは新に生きる力を与えられる。そのキリストの愛に根ざし、しっかりと立つ者としてくださるように、とパウロは祈る。
キリストの愛が私たちにとっての根っこなのだ。キリストに愛されていることが根っこなのだ。私たちが何かをすることが私たちの根っことなるわけではない。キリストの命令を守って悪いことをしなかったから、いっぱい奉仕したから、いっぱい献金したから、そのことで私たちの根っこがしっかりするようになるわけではない。そういうことが出来なかったから私たちの根っこが揺らぐというわけでもない。私たちの根っこはキリストの愛、キリストに愛されているということに尽きる。
自分に何が出来るか、それは次の問題である。まずはキリストに愛されていること、キリストにどれほど愛されているか、それを知ることが第一の問題だ。
「3:18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」なんだか風呂につかっているようなイメージを持ってしまう。キリストの愛の風呂にたっぷりつかり、そのぬくもりをしっかりと体に蓄えるように、と言われているようだ。
そのぬくもりをしっかりと味わうことで、いろんなことをする力が生まれて来る。いろんな奉仕をする力も沸いてくる。ぬくもりを感じないうちに何かを始めてしまうとすぐに寒くなってしまう。すぐに疲れてしまう。
私たちは何が出来るとか出来ないとかいうことを気にしてしまい、あの人はあんなに出来ているのに私はできていない、私はこんなにできているのにあの人は出来ていないとか思う。しかしパウロが祈ることは、出来る人間になるように、ということではなく、キリストの愛を知り、キリストの愛に満たされる者となることなのだ。
力
「3:20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」
私たちは自分に何が出来るかをとても心配している。自分が何者であるかをとても心配している。どれほどの力を能力を持っているかを心配している。しかし神は、その力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてをはるかに超えてかなえてくださることが出来る方であるというのだ。
私たちの思いの及ばないことまでかなえくれる方なのだ。赤ん坊がいちいちこれをしてくれと言わなくても、子どもに必要な世話をする親のような感じなのだろうか。
そして実際神はそんな思いで私たちを見つめている。そんな思いで愛している。
相手
ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
私たちはいろんなものを持ちたがる。家も車もお金も、地位も名誉も欲しいと思う。しかし本当は私たちにとって一番必要な者は、私たちを愛してくれる相手なのではないかと思う。私たちを徹底的に、完全に愛してくれる相手、私たちを完全に受け止めてくれる相手がいること、それはどれほどの財産よりも、地位よりも名誉よりも大事なものなのだと思う。
神の愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどなのか、私たちも本当はあまり知らないのかもしれない。
「この船大きいだろう」「分からない全部見えないから」。全部見えないほどの大きな神の愛を私たちも理解していきたい。おしえられていきたい。そしてその神の愛にしっかりと根ざして生きたい。