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礼拝メッセージより
説教題:「計画」 2001年11月4日 聖書:エフェソの信徒への手紙 3章1-13節
召命
時々、どうして牧師になったのですか、と聞かれる。どうしてと言われてもなかなか返事は難しい。何か使命感にかられて、何とかしてキリストのことを伝えたい、という思いがあったから牧師になった、というのならばかっこいいのだけれど。実際は牧師になれと神に導かれているのかな、という小さな思いが発端だった。それが次第に悶々とした思いとなっていった。そして落ち着かない毎日に耐えきれずに神学校へ行った、というのが本当のところだ。
つまらない者
今日の聖書にパウロがどういうことで異邦人にキリストを伝える者となったかということが書かれている。パウロは、自分が神によって、この福音に仕える者としてくださった、と語る。神によってこの福音を伝える者としてくださったという。そのことは神から恵みを賜ったことによってそうされたのだ、と語る。イエス・キリストの福音、つまりイエスの十字架によって全ての者の罪は赦されている、神は人を愛しているから、大事だから、そうまでして人の罪を赦された、キリストに罰を負わせることで人のあらゆる罪を赦すことにされた、そのイエス・キリストの福音を伝えるようにしてくださった、それは恵みなのだ、ということだろう。
恵み、ということはただ神からの一方的な贈り物、といことだ。受け取る側に、それを貰うだけの素質や才能や資格があるから、その務めに任命されたというわけではない、ということだ。イエス・キリストの福音を伝えるためにふさわしいと誰からも認められたからパウロはその務めについたわけではない。ただ神からそうするように、という任命されたからそうしている、ということだ。恵みを与えられたからそうするようになった、恵みによってそうさせられた、と言う。
そして、この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられた、という。
コリントの信徒への手紙一 15:9「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」
コリントの信徒への手紙一 2:3「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」
ガラテヤ4:12-14「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。」
パウロはこれらの手紙で自分が教会を迫害した者であり、使徒と呼ばれるにふさわしくない者であると語る。イエスの弟子だなんて偉そうなことは言えない、と語る。
またパウロは自分の弱さについてもたびたび語っている。パウロは異邦人に対して、ユダヤ人でない者に対して福音を伝えていった、そしていろんなところで教会を作っていった人であった。しかしそれはパウロが弱さを克服した人間であったからではない。超人的なものをパウロが持っていたからそれができたのではない。パウロの力によって福音を伝えていったのではない。ただ神の恵みによって押し出されることで福音を伝えていったのだ。
エフェソの手紙では、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者である私に恵みが与えられたという。知識と経験が豊富にあって、人望もあって、能力のある者、大事な務めを任すならば普通はそんな人を選ぶだろう。しかし神が福音を伝えるという、その大事な務めを任した者、それは最もつまらない者だったというのだ。神は最もふさわしくない者を選び、自分の大事な務めをその人に託した、それがパウロだったというのだ。
コリントの信徒への手紙一 1:26-31 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」
神は敢えて、無学な者や無力な者を選ばれるようなのだ。今こうして教会に集められている者たちも、そういうことで選ばれたということなのかもしれない。そしてそれは、だれも自分のことを誇ることがなくなるためであるようなのだ。
自分の力や知識や能力を誇りたい、そして威張りたいと思うのが人間の常だ。しかし神は敢えてそういうことを誇りとできないようにしているみたいだ。そしてそれは神を誇るようになるため、神の力こそ、神の恵みこそを誇るようになるため、つまり神にこそ頼るようになるためなのだろう。
完全無欠な人はいないし、実際誰もがいろんな弱さを抱えて生きている。社会的にはそんな弱さを見せてはいけないような風潮があるし、弱さを克服してきたもの、死にものぐるいでやってこれた者こそが社会で成功する、というような言われ方をすることが多い。だからこそ、努力して頑張って自分に力を蓄え、自分の業を磨き、自分を高めていくことを目指すような面がある。神を信じる、神に頼るなんてのは社会の落ちこぼれの人間のすることであるかのような言われ方をすることもある。
でもやっぱり人は誰もがいろんな弱さや苦しみを抱えて生きている。誰にも見せられない心の闇を誰もが持っているのだろう。いつも楽しく騒いでいる人が、一人になったときには暗い顔をしているなんてことも聞いたことがある。一時根暗、というような言葉が流行って、暗いことは悪いこと、明るいとがいいことというような言われ方をした時期があった。今でもあるかな。元気がないことは悪いことで、いつも明るく元気であることこそがいいことというような言われ方をすることが多い。そしてその暗さや元気のなさや苦しみや悲しみをなんとか消し去ることが大事なような言われ方をすることが多いような気がする。
でもそれは現実の人間を誤魔化して、本当の人間を見なくしようとしていることでしかないのではないか。人生は楽しいことばかりではない。苦しみや悲しみもある。それもあって人生だ。
神はそんな苦しみや悲しみのある人生を、全部ひっくるめて支えてくれている。苦しんでいる時も悲しんでいるときも、神は私たちの足下からしっかりと支えてくれているのだ。
苦しみや悲しみを経験することは、自分の無力さを知る時でもある。しかしそんな時こそ人は神を見上げることが出来る。自分に頼るのではなく、神に頼る、自分の力に頼るのではなく神の力に頼る、そんな生き方を知ること、それがパウロにとっての恵みでもあったのだろう。神の力を一番知っている者、神の恵みを一番知っている者、それは最も無力な、最もつまらない者なのかもしれない。だからその最もつまらない者を神は選び、福音を伝える者とされたのだろう。
私たちはいかほどの者なのだろうか。私たちも悩みや苦しみにさいなまれる者だ。自分の無力にいやになる者だ。しかしだからこそ、神に頼ることの喜びを知ることが出来る。
もちろんそれは神が啓示してくださるからこそ知ることができるわけだが、その神の啓示を、神の声を最も聞くことが出来る時、それが自分の無力さをよく分かっている時なのだと思う。
秘められた計画
パウロはそうやって神から秘められた計画を知らされた。
それは異邦人が、福音によってキリスト・イエスにおいて約束されたものを私たちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということ。つまり神から遠く離れて神を知らなかった者が、神を知り、神の恵みにあずかる者となるということだった。そしてユダヤ人も異邦人も、キリスト・イエスにおいて一つとなるということ。あらゆるものが一つになる、福音はそんな力のあるものなのだ。
自分を誇るのではなく、神を誇る、自分に頼るのではなく神に頼る、そのことで全てのものが一つとなること、それが神の秘められた計画なのだろう。その計画の中に私たちも生かされている。だから私たちも神の恵みによって、私たちに託されている務めを果たしていきたいと思う。
私たちも無力な者たちだ。しかしそんな無力な私たちだからこそ、キリストの福音を託されているのだろう。何を託されているか、その声を神に聞いていこう。>