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礼拝メッセージより
説教題:「敵意」 2001年10月28日 聖書:エフェソの信徒への手紙 2章11-22節
異邦人
ユダヤ人は自分たちが神に選ばれた特別の民と思っていた。そしてユダヤ人は異邦人を嫌っていた。見下していた。もうほとんど憎んでいた。というよりも人間扱いしていなかったようだ。ユダヤ人は、異邦人は地獄の火を燃やす薪となるために神に造られたと言っていたそうだ。そして、異邦人は殺すのが一番良いことであるとも言ったそうだ。神はすべての国民の中でイスラエルだけを愛されると思っていたそうだ。ユダヤ人である証拠は割礼を受けているということであったので、ユダヤ人は異邦人を割礼のない者と言って見下していた。
エフェソの教会の人たちは、以前はユダヤ人から見れば肉によれば異邦人であり、割礼のない者と呼ばれていた。以前は、神を知らず、神との関係もない、神の言葉を聞くこともない生き方としていた。そこでは希望もない生き方、神から遠く離れた生き方をしていた、とこの手紙の著者は語る。
ユダヤ人がいうように確かに神から離れた生き方をしていた。しかし、今はキリスト・イエスの血によって近い者となったのだという。以前は、実際ユダヤ人から差別されるような神とはとおく離れた生き方であったが、今は違うのだ、イエスが十字架で死なれたことで、そこで血を流して死なれたことで、私たちは神に近くされたのだ、とこの手紙の著者は語る。
平和
この手紙の著者は、あなたがた異邦人は、というようにユダヤ人である。ユダヤ人と異邦人という分け方をして、異邦人を見下していた、以前はそんな生き方をしていた人なのだろう。しかしキリストを知ることで、キリストを信じることで、ユダヤ人と異邦人という二つのものをキリストは一つにした、と言っている。キリストの十字架による死は、敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄された、と言う。そういう意味で、キリストは私たちの平和であると語る。
規則
ユダヤ人は、モーセの十戒に代表されるような律法と言われる戒めを一所懸命に守ってきた。その律法からいろんな決まり、規則や戒律ができてきて、かなり命がけで守ってきたようだ。けれどもその規則を守ることで、規則を守ることができる自分を優れたものと思い、規則を守れない、守らないものを裁いていたようだ。本来その律法や規則は自分が神との関係を持つために守るものであったはずなのに、、神に近づくための規則ではなく、ただ破らないための規則となって、いつしか守らない者を裁くための道具となっていたようだ。
しかしそんな規則と戒律ずくめの律法をキリストは廃棄された、と言う。
十字架
キリストは十字架によって、十字架の死によって、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた。両者を神と和解させることで一つとした。
神から遠く離れていた異邦人を神の近くにいさせることによって、そして神に近いと思っていたユダヤ人に対しては、自分たちを縛り付けて、敵意を起こさせていた律法を廃棄することで、両者を一つのものとした。異邦人をユダヤ人のようにさせるのではなく、ユダヤ人を異邦人のようにさせるのでもなく、両者を新しい人に造り上げて平和を実現し、両者を一つの体として神と和解させ、敵意を滅ぼされた。そしてそれはイエスの十字架によってそうした、というのだ。十字架を通して、十字架によってなのだ。
敵意
神は私たち人間の敵意をイエス・キリストの十字架によって滅ぼされたという。私たち誰もが敵意を持っている。そしてそのままでは互いにぶつかり裁き争うしかない。けれども神はイエスの十字架によって、敵意を滅ぼされたというのだ。イエスの十字架によって私たちの罪は赦されている。私たちのあらゆる罪は赦されている、そのことを知ることによって私たちは造りかえられる。イエスの十字架による罪の赦しを受け入れることで私たちは新しく造られるのだ。そこで私たちの敵意は消されていくのだろう。
相手が代わるならば、相手が謝るならばゆるしてやろう、と思う。相手が悪いのだから相手が折れるべきだと思う、そんな気持ちを捨てきれない。でもそんな時私たちは敵意を抱えたままいるように思う。相手の間違いや駄目さを指摘することは誰もが得意だ。人の間違いにはすぐに気がつくし、とても気になる。しかし自分のことは実際にはなかなか見えない。相手のことは何とかして変えてやろうと思う、相手の間違いを正してやろうと思う、そしてそれが出来そうにないと分かるとあいつは駄目だ、間違っている、どうしようもないやつだ、なんて思ってしまう。自分は動くことをしないで一所懸命に相手を動かそうとすることが多い。
でも本当は自分こそ動かないといけないのかもしれない。自分こそイエスのもとへ、イエスの十字架のもとへ、イエスの語っておられる言葉が聞こえる所へ動くことが大事なのだろう。
神の住まい
神の住まい、私たちひとりひとり、私たちの教会が神の住まいとなるというのだ。あるいはまた私たちの教会、神のもとに集まっている者たちが神の住まいということなのだろう。神が私たちの中に来てくれる、そこに居てくれるということだ。
あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である、とこの著者は語る。キリストを伝えてくれた使徒や預言者という土台の上に建てられている、そしてかなめ石はキリスト自身である、そんな建物であるという。キリストにおいてあなたがたも建てられ、霊の働きによって神の住まいとなる、と言うのだ。 かつてユダヤ人だ異邦人だ、と言っていた者たち、互いに敵意を持っていた者たちを含めて神は神の住まいとして建てるというのだ。霊の働きによって、つまり神の働きによって、私たちも神の住まいとして建物のなかに組み合わされていくというのだ。
敵意を持つ、敵意をうちに秘めている私たちである。罪を持っている私たちである。その私たちを神は住まいとして建て上げるというのだ。
キリスト新聞にこんなことが載っていた。
ある田舎町で古い職人の家の長男が洗礼を受けることになった。ところが間近になって受けられないと言ってきた。そこの教会の牧師は、父の許しが得られなかったのだろうと思った。ところが彼は、父はむしろ自分の受洗を喜んでさえくれているが、ただ自分が自信を失ったのだと言った。洗礼を受けても立派なキリスト者の生活を全うできるかどうか自信が持てないと言った。
牧師は、少々声を荒げて言った。自信とは何か、洗礼を受けるのは、自分を信じて生きるということではない。むしろ反対ではないか。自分を信じて生きる愚かさ、罪深さを捨てて、ひたすら神の恵みを信じ、より頼むことではないか。救いの確かさ、これからの歩みの確かさ、それはすべて神から来る。私が説教で説き続けていることは、そのことではなかったか。それが分からないなら洗礼を延期するよりほかない。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」キリストを信じているからといって、教会員になっているからといって、敵意も人も憎むこともないという人はいないだろう。私たちの中には敵意と憎悪が渦巻いている。しかしキリストは私たちの平和なのだ。キリストが敵意という隔ての壁を取り壊してくださるのだ。
私たちは自分の力ではどうにもならない、どうしようもない強い力に引きずり回されているようだ。私たちは自分の罪深さと無力さを嘆くしかないようだ。
しかし私たちはそこで、祈ることができる。私の罪を赦してください、私を憐れんでください、と祈るしかない。私にはできない、ただ神に頼む、神に頼むしかない。しかし神に頼むことができる。神の住まいは神が建ててくださる。私たちも、私たちの教会もその神の住まいとさせていただこう。神の住まいとふさわしい者、ふさわしい教会とさせていただこう。