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礼拝メッセージより
説教題:「神の作品」 2001年10月21日 聖書:エフェソの信徒への手紙 2章1-10節
死んでいた
私たちは生きている。やがて死ぬことになる。ところが、あなたがたは罪のゆえに死んでいた者であった、神に逆らっていた者であった、と聖書は語る。そしてそれは「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでい」たということであるというのだ。悪霊のために惑わされて生まれながらの神の怒りを受けるべき者であったというのだ。
自分の欲望のままに生きることはすばらしいことのように思う。けれどもそれは過ちの罪のために死んでいる状態である、というのだ。
あわれみ
しかし死んでいた私たちを神は生かし、新しい命を与える、と言うのだ。
コリントの信徒への手紙二 5章17節。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とも言われている。死んでいた者を生かす、それが神の働きでもある。死んでいた者をキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださったというのだ。
しかし現実の私たちは神に生かされ、天の王座に着かされた人生を送っているだろうか。
人生は罪を犯しつづけるものらしい。人を傷つけまた傷つけられる。少しずつ傷を増やしていくのが人生と言えるのかもしれない。年を取るということは少しずつ罪を重ねていくことでもあるのかもしれない。
ヨハネによる福音書8章1-11節。「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」
人の力によって自分を清めることはできず、清めよう、正しくしようと思いつつ、結局は罪を重ねるしかない、それが人生でもあるようだ。
年を取るにつれてだんだんと磨かれて洗練された人間になれればいいと思う。いろんなことに精通して、何があってもたじろがず、立派な人間になっていければと思う。ところがこれまでの自分を振り返ってみてもどうもそうはなっていないみたいだし、これから今までと同じくらいの間生きたとしても、立派な人間にはなれそうもない。生きれば生きるだけいろんな大変なことを経験し、長く生きる分だけ罪を重ねていくしかないようだ。長く生きる分だけいろんな人と出会う、多くの人と出会う、その分いろんな楽しい出会いもあるけれども、それと同じように、あるいはそれ以上に人を傷つけ罪を重ねることにもなっていくようだ。先ほどのヨハネの福音書のところでイエスに『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』と言われたとき、年長者から始まって一人一人そこを去っていったと書かれている。罪を犯したことがない者が、と言われてまず始めに身につまされたのは年長者だったということのようだ。こいつは罪を犯した女とは一体どんな女か、どんなおかしな人間か、けしからん奴だ、そこに集まって見物していた人たちはみんなそう思っていたことだろう。罪を犯した者は罰して当然、見せしめにして当然、罪を糾弾して当然、そう思っていたことだろう。人の罪を罰することに対して自分は痛くもかゆくもなかったのだろう。しかし罪を犯した者のない者が石を投げなさい、と言うイエスの一言で彼らは、そして年長者はまず始めに自分のことを、自分の罪のことを考えるようになったということだ。ということは生きるということは罪を犯し続けるということであり、年を重ねるということは罪を重ねるということでもあるということだろう。
自分の罪を感じないところでは人を罰することは簡単だ。しかし自分も罪があると思えるときには人を罰することはできない。あいつはけしからん、こいつは駄目だ、なんてことを言う時、私たちは自分の罪をすっかり忘れてしまっている、自分の罪をどこかに棚にあげてしまっているのではないか、しかし現実にはそうやって相手を責め裁くことが多い。自分が罪人であることを忘れ、聖人君子になったかのように相手の間違いを責めることが多い。そうやってまた罪を重ねていく。私たちは石を投げずに去っていった年長者を見習う必要があるようだ。
なんともどうしようもない生き物、それが人間であるようだ。しかしそんな罪を犯し続けて生きるしかない人間を、神は新しくし、命ある者へと造りかえるというのだ。神が憐れみと愛をもって人を生かすというのだ。そしてそれはただ神の恵みによるというのだ。人が自分を鍛え、磨き、修練して自分を高めることによって生きるものとなるのではない。そうすることで罪から離れるわけではない、きよい人間になるのではない。きっと人はただ罪を犯し続け、年を取る毎に罪を重ねていくしかないのだと思う。
しかしそんな人間を神は新しく生きるものとするというのだ。あなたがたはもうすでにそうやって生きるものとされている、死んだ状態から生きる状態へと変えられている、というのだ。
ただ神の恵みによって人は新しく生きるものとされるのだ。罪のゆえに死に定められている私たち人間を、神はキリストの死と復活を通じて、死に勝利させ、キリストと共によみがえらせ、永遠の命を与えてくださったのである。
私たちは誰もが自分の力で自分を救った者はいない、という。誰もが、ただ神が愛し憐れんでくれたから救われているのだ。だから誰も自分のことを誇ることは出来ない。私たちは偉くなったからクリスチャンになったわけでもなく、クリスチャンになったから偉くなったのでもない。教会に来ていない人よりも立派になったわけでもない。優れた人間になったのでもない。自分には誇る所は何もないのだ。私たちは依然としてどうしようもない罪人なのだ。しかしそんな私たちを神は憐れんでくれているのだ。私たちは相変わらず、罪のない者が石を投げなさい、罪のない者が責めなさい、裁きなさい、と言われて真っ先にそこに居づらくなってしまって去っていくしかないようなそんな罪人であるのだ。しかしそんな私たちを尚も愛してくださり、憐れんでくださるのだ。
神の作品
どうしてそうまでして神は私たちに関わり続けるのか、それは神が私たちを造ったからであり、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからだ、というのだ。
善い業を行うために造られた、だから私たちはその善い業を行って歩む、という。
神の愛を獲得するために、神の恵みを獲得するために善い業をするのではない。いいことをしておけば後でご褒美を貰えるからするのではない。日頃の行いが善かったらいいことばかりがあるからするのではない。善いことをすればその分だけ罪を赦されるからするのではない。
私たちの罪は私たちが善いことをすることで赦されるのではなく、イエスの十字架の死によってすでに赦されているのだ。
何かを貰うために善い業をするのではなく、善い業をするようにと造られているからするのだ。すでに神に愛されているから、憐れまれているから、罪を赦されているから、だから善い業を行って歩むのだ。
教会はそうやって神に憐れまれて赦されている者の集まりだ。けれどもやはり罪を持っている者の集まりだ。だからもし互いに罪をあぶり出せば一杯出てくるだろう。互いに責め合うならばいつまでも終わらないだろう。石を投げ合えば山のような石が必要な者の集まりだろう。でもそうやって罪を責めるのが教会の務めではない。
神が罪のある私たちを愛し受け入れてくれているように、罪のある者が互いに受け入れ愛する、それが教会だろう。しかしそのままを何もかもひっくるめて受け入れるというのは簡単なことではない。間違いも罪もひっくるめて受け入れることは相当しんどいことだ。間違いを指摘するほうがよっぽど簡単なことだ。しかし神はしんどいことをして私たちを受け入れてくれている。イエスの十字架の死というとてつもなく大きな苦しみによって私たちを受け入れてくれている。そして私たちもそういう風に互いに受け入れること、それが教会のあるべき姿なのだろう。愛することはしんどいことだ。しかし愛することはうれしいことだ。善い業、それは互いに愛し合い赦し合い、受け入れ合うということでもあるのだろう。そういう風に生きるように、神は私たちを造られているのだ。