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礼拝メッセージより
説教題:「キリストの体」 2001年10月14日 聖書:エフェソの信徒への手紙 1章15-23節
感謝
感謝することが少ないこのごろ。
私たちは何に感謝するか。自分にいいことが起こったこと。小遣いを貰ったこと。宝くじが当たったこと。行きたい学校に入れたこと、いい会社に入れたこと。何かいいものを手に入れた時には感謝する。
誰かのことを感謝することってあまりない。自分にいいことをしてくれたこと、親切にしてくれたことには感謝するかも。
パウロは、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していること、を感謝している。聖なる者たちとは教会に集う者たちのことであろう。教会の人たちが愛する者となっているということ、それこそをパウロは感謝するというのだ。
キリストを信じるということと、隣人を愛するということはほとんど一つのことであるのだろう。キリストを信じることが隣人を愛することにつながらないこともあったそうだ。宗教裁判があったり、異端を弾圧するという方法でキリストに忠誠を示すようなことも実際にあった。バプテストの先人たちも異端だとしてカトリックからもプロテスタントからも命を狙われた時期があったそうだ。聖書にもファリサイ派の人たちにとっても、他の人たちを軽蔑するということで自分たちの正しさを確認していたような節がある。自分が正しくあること、それが神に対する忠誠であるという気持ちはきっと今でもある。自分がどれほど正しいかということにはみんな敏感だ。そして周りの者の間違いを指摘したり責めたりすることでますます自分の正しさを実感して安心するような面もある。
しかしパウロはエフェソの教会の人たちが正しさを守り続けていることを喜んでいるわけではない。愛する者であることを喜んでいる。そして隣人を愛するということはイエスの命令でもある。一番大事な命令でもある。隣人を愛するということは、隣人を受け止めていくこと、隣人すべてを受け止めていくことだろう。人はみな間違いや足りなさやだらしなさや傲慢や、そして罪をいっぱい持っている生き物だ。そんな間違いも足りなさも罪も持っているその人をまるごと受け止めて大事にしていく、それこそが愛するということなんだろうと思う。私たちは相手を正すこと、相手の間違いをなくすこと、相手をいい人間に変えてあげよう、というようなことには割と熱心である。けれどもそのままの相手を受け入れることがなかなかできていないのかもしれない。相手そのものを見ることよりも、相手の間違いや駄目さや罪や、あるいは自分が気に入らない所ばっかり見ていて、本当は相手が見えてなかったりするのかもしれないと思う。愛するということは、罪も汚れもないきれいなだけの相手を見るのでもなく、罪や汚ればかりをみるのでもなく、罪も汚れもしみもある相手を見ること、そして全部を受け止め大事にしていくということなのではないかと思う。
願い
また、神のことを深く知ることができるようにし、心の目を開いてくれるように、と祈る。そして神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、神の力がどれほど大きなものであるかを悟らせてくれるように、と祈っている。
神のことをもっともっと知って欲しい、神の栄光も力ももっと知って欲しい、すべてはそこから始まるのだ、ということだろう。
宗教的なことがらになると特にそうだが、いろんなしきたりや行事の仕方というようなことの方にばかり関心が向くことがある。教会でも礼拝の順序はどうしなければいけないか、どんな讃美歌にしないといけないか、なんてことからもっともっと細かなことまで気になって、そんなことばかり考えているなんてこともある。そしてだんだんとそんなしきたりや何かのやり方をよく覚えることが、信仰深くなるようなことになってしまって、そんな物知りの人が教会の中心にいることになる、なんてことになってしまうようなことになりかねない。
けれどもパウロが願って祈っているように、私たちにとっても大事なことは、教会のしきたりを覚えることよりも、神を知ること、神の偉大さを知ること、神の愛を、愛の深さを知ること、そしてその偉大な神のもとへ招かれ集められているということを知ることだろう。それを知ることから、そしてそのことを感謝し喜ぶところからすべては始まるのだと思う。
教会でいろんなことをする、それはこの感謝と喜びから起こってくる出来事なのだ。礼拝することも献金することも、そこから起こってくる出来事なのだ。しなければいけないからするのではない。
キリストの体
私たちはそういう風に教会に集められている。そして教会はキリストの体であるという。私たちはその体のそれぞれの部分を構成する者として教会に集められている。今の世も、来るべき世もすべてを支配している、そのキリストのもとに、キリストの体として集められている。それぞれに与えられている賜物、才能を生かし合って、尊重し合っていくために集められている。けれども私たちは何かをしなければならないから集められているのではない。教会はこれをしなければいけないから何かをするところではない。何かをしたいと思うから何かをする所なのだ。
愛すること
ある教会では、互いに裁かない、というのを教会のスローガンにしているそうだ。そしてそこの教会はどんどん人数が増えているそうだ。
当たり前のようなスローガンみたいだが、実は案外どこの教会もそれができていないのかもしれないと思う。
私たちはみんな間違いも足りなさも罪も持っている。みんないっぱい持っている。そんな罪人の集まりが教会である。互いに愛し合うこと、いたわりあうこと、それが私たちの教会にとっても目指すところだろう。
みんなイエスの十字架の死によって赦されたもの同士なのだ。大きな犠牲を払って贖われた大事な人間同士なのだ。だからこそ私たちも、もっともっと神のことを知り、パウロが感謝するような愛し合う者となっていこう。