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礼拝メッセージより
説教題:「血によって」 2001年9月16日 聖書:ヘブライ人への手紙 9章11-28節
償い
罪を犯した時には償いをする。その償いによって赦される。かつて旧約の時代に人々は動物を殺すことで償っていた。自分の命を捧げることの代わりに動物の命を捧げていた。傷のない動物、いいものを捧げていた。しかしその犠牲は、汚れというようなことから体をきよめることはできていたが、魂をきよめることはできていなかったらしい。また動物の犠牲は、罪を犯すたびに繰り返し捧げなければならない、あるいはある程度の時間をおいて繰り返し捧げなければならないような犠牲であった。また当時は命は血に宿っていると考えられていたらしく、血によって贖われるという風に考えられていたらしい。
しかしそんな繰り返し捧げなければならないような犠牲はもう必要ではなくなった、とヘブライ人への著者はいうのだ。それはイエスが自分の命を捧げたからだという。イエスは自分から命を捧げた、愛する者を救うため、愛する者を買い戻すために自分の命を捧げた。そしてこのイエスの一度の死によって人々の罪は完全に赦されるというのだ。
なぜ
ではなぜイエスは死なねばならなかったのか。レビ記17:11には「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」ヘブライ人にとっては、血を流さないではあがないはありえない、というのが基本的な考え方だったようだ。いろんな所へ血を振りかけるということは、血を流さなければ汚れがきよめられないと考えられていた。それはきっと血が、つまり命がもっとも尊いものであり、もっとも尊いものを神に捧げることできよめられ、また赦されるという考え方があったようだ。そしてその最高に尊いささげものがイエスであった、とこの著者は伝えている。
何だか屁理屈のように聞こえる。とにかく赦しには大きな犠牲が必要であるということだろう。そしてその最高の犠牲、最も高価な犠牲が払われた、イエスの死はそんな犠牲であったのだ、とこの著者は語る。
赦し
私たちはあの時のあのことを赦して欲しい、このことを赦して欲しいと願う。かつてあんなひどいことをしてきた、こんなひどいことをしてきた、というようなことが誰にもあるだろう。そんなこともこんなことも神は赦してくださるだろう。あの人を傷つけてしまったことを赦して欲しいと祈る時もあるだろう。しかし神の赦しはただそれだけではない。そんなあのことこのことと数えることのできるようなことがらももちろん赦されるだろう。でもそれだけではなく私たちの存在そのものを赦してくれているのだ。私たちがここにいること自体、私たちそのものを赦してくれる、イエスの死による赦しはそんな赦しなのだ。あの時のことは赦されるだろうが、今回のことは赦されないに違いないなんてことを思うことがある。いくら神さまでもこのことだけは赦されないに違いないと思うことがある。そうやって私たちはしばしば神の赦しも小さなものにしてしまうことがある。しかしそんなことはないのだ。マタイ12:31「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、"霊"に対する冒涜は赦されない。」霊に対する冒涜とは、どんなものでも赦されるということを認めないということだと聞いたことがある。私たちのすべてを赦す、どんな罪をも赦す、それがイエスの死による赦しなのだ。この罪は赦された、でもまたこんな罪を犯したからまた罪人になった、というようなことではないのだ。もうすでにイエスの死によって血によって私たちは完全に赦されているのだ。
十字架
イエスの十字架の死によって贖われた。十字架はだから教会の象徴である。
十字架、それはまた私たちがそれでなければ救われない者であるということ、それほど罪深い者であるということでもある。十字架は私たちの救いの象徴であり、また私たちの罪の重さの象徴でもある。
私たちの罪は赦されている、イエスの死によって赦されている、しかしそれで私たちが罪のない人間になったわけではない。イエスを救い主と信じたからといって、それで私たちが信じない人よりも立派になったわけではない、偉くなった訳ではない、きよくなったわけでもないと思う。教会生活を長いこと続けている人ほどきよい人間というわけではないのだ。長かろうが短かろうが関係ないのだ。イエスによって赦されねばならないことにおいては私たちは誰も同じ罪人であるのだ。
誠実な立派なクリスチャンとは、教会のことを良く知っている人間でも多額の献金をしている人でもない。牧師だから立派だとは限らなく、聖書のことをよく知っている人間が立派だとも限らず、信仰歴が長い人が立派だとも限らない。きっと立派なクリスチャンとは自分が罪深い人間であることを知っている人のことだろう。自分が罪深く無力な人間であることを知っている人のことだろう。だから立派なクリスチャンは自分のことを誇ることはしないだろう。自分の経歴を誇らしげに語る人間は立派なクリスチャンではないと思う。私はこんなにすごいことをやってきました、私はこんな苦しいことも乗り越えてきました、私はこんなに長く信仰を守ってきました、なんてことを自慢げに話すような人はきっと立派なクリスチャンではないだろう。
教会関係の集会などに行くと、よく立派そうなクリスチャンの話がある。こんなに苦しい中でこんなにやり遂げました、こんなに立派に信仰を守り通しました、なんていうのが多い。でもそんな話を聞くのが僕はとても苦痛である。立派にやり遂げたというような牧師の話なんか聞いた日にはすっかり落ち込んでもう牧師もやめたくなる。でも時々聞くいろんな苦労話、悩んだり挫けたり打ちのめされたりしながらやっている、というような話を聞くととても安心する。自分だけが苦労し悩んでいるわけではないことを知るだけでも安心する。そしてやる気も出てくる。
教会に初めて来るような人もきっと同じではないかと思う。誰もがそれぞれにいろんな悩みや苦しみを抱えて生きている。そしてそんな重荷を抱えて教会にやってきているのだ。そこできれいごとばかり聞かされてもどう思うだろうか。こんな苦しいことがあっても私は立派に乗り越えてきました、どんな時にもずっと頑張ってきました、なんていう人ばっかりだったら僕だったらとても居づらくなる。あるいは、昔は良かった昔の教会は良かったとか、今の若い者はけしからん、今の社会はどうなっているんだなんて聞かされたら若い人たちはすぐに来なくなるだろう。でも今の教会はそんな面があると思う。私たちは自分が罪人であること、イエスの十字架の死によって赦されなければならないような罪人であることをすっかり忘れてしまっているのではないか。先にいることを誇っているようなところがあるのではないか。
マタイによる福音書20章1-16節
1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
私たちは先に教会に来ていることをどこか自慢に思い、後から来る者よりも優れていると思っている。長いこと教会にいることを自慢に思っている。そして神からそれだけ多くの恵みを貰えるものと思いこんでいる。でも全然そんなことはないのだ。むしろ先のものが後になっているのだ。
神が私たちを教会に集めてくれたのも神の導きなのだ。ただ神がそうしようとしてくれたからなのだ。私たちが優れていたからではない。ただ神が呼んでくれたからなのだ。神が罪人である私たちを愛し憐れんでくれたから、ただそれだけなのだ。そして私たちはイエスの血によってやっと神の前に出ることが赦されているものなのだ。
聞くこと
少し前に読んだ本にこんなことがのっていた。『近年「若い人々への宣教の不振」という文脈で、「教会は若い人々に語る言葉を持っていない」という嘆きをたびたび耳にしている。しかし、事態は逆ではないのか。「語る言葉」を持たないのではなく、「聴く耳」を持っていないということではないのか。』(アレテイアNo.34)
きっとその通りだと思う。一所懸命に頑張って疲れ果てている者にむかって、あるいは病気で苦しんでいる者に向かって、頑張れ頑張れということを言うことで余計苦しめてしまうということは最近よく言われている。苦しんでいる人のその苦しみを、悲しんでいる人のその悲しみを、悩んでいる人のその悩みを私たちは、教会は聴いているだろうか。そんなことしたらだめだ、こんなことしたからよ、そんなものよ、そんなこというもんではない、こうしなさい頑張りなさい、近頃の社会はどうなっているのか、最近の若い者は何をしているのか、昔はそんなことを言っている余裕もなかった、私はそんなこと思ったこともない、何をおかしなことを言ってるの、なんてことをいうことが多いのではないか。
聴くことをしないで、忠告することやたしなめることばかりをしてきたのではないか。ローマの信徒への手紙12章15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」共に喜び、共に泣き、共に苦しみ、共に悩む、それが教会の姿なのだと思う。
私たちは罪人だ。ということは誰もがいろんなことで苦しんでいるということだろう。自分たちもいろんなことを苦しんだり悩んだりしながら生きてきたはずだ。キリストを信じたらそんなものが何もかもなくなったというわけではないだろう。苦しさのなかで神を見つめ、悲しみの中で神に聴いてきたのではないのか。罪は赦されている、しかしやはり尚罪に苦しみ罪の中に生きているのが私たちの現実だ。
だから私たちも共にその苦しみを分かち合って生きたいと思う。苦しみや悲しみを共有すること、その声を聴いていくこと、そこに喜びがある。お互いに苦しみを共感できるところに喜びと安心が生まれてくる。
苦しみを誰にも言えなくて、そのために余計に苦しんでいるという人たちは大勢いる。苦しみを含めて受け止めてくれる場所を求めている人は今きっと大勢いる。何よりも私たち自身がそれを求めているのではないか。そんな教会でありたいと思う。