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礼拝メッセージより
説教題:「大祭司」 2001年9月9日 聖書:ヘブライ人への手紙 7章22-28節
罪
罪って何? 法律に違反すること? 悪いことをすること? それよりも神の言葉に従わないこと。神の声を聞かないこと。そして自分のことだけを考えること。自分の力だけで生きていこうとすること、自分の力を頼りに生きていくこと。
神との関係がおかしくなっている状態。
ルカの15章の放蕩息子のたとえ。息子は親父から離れて放蕩する。親の元から離れて自分の持っているものによって、それは結局は親父のもらった財産だったわけだが、そして親父から離れて遠くに行ってしまう。
神から離れ、自分の力で生きていけると思うこと、神に頼るのではなくて自分の持っている才能や自分の持っている財産に頼ること、それが罪の状態なのだろう。
赦し
神との関係を正しく持つこと、神から離れてしまうという、神に従わなくなってしまうという罪を赦してもらうために祭司はささげものをささげていた。ささげものをするという大事な務めを祭司は負っていた。ささげものによって罪は赦され、神との関係を正しく持つことができるようにされていた。祭司はそんな大事な務めを負っていた。そして罪のために繰り返しささげものをしていた。
しかし聖書はイエスが自分をささげたことによってすべての罪は赦されたというのだ。イエスが十字架によって自分をささげたことによって、すべての民のすべての罪は赦されたという。だからこれ以上のささげものをする必要はないというわけだ。
イエスによってもたらされた赦しは放蕩息子を迎え入れた親父のよう。親父は自分の財産を使い果たし、落ちぶれてしまっている息子をそのまま迎え入れる。親父は、息子が自分が間違っていた罪を犯したといったから迎え入れた訳ではなかった。それを言う前に迎え入れている。そして自分の大事な息子として迎え入れている。
神の赦し、イエスの赦しとはそれほど徹底的な赦しのようだ。私たちがそんな話しを聞いたとしたらどう思うだろうか。そんな甘いことでどうするのか、そんなことしていたら息子のためにならない、もっと厳しくすべきだ、と思うのではないか。しっかり働かして償いをさせてから赦すべきだ、と言いたくなる。あるいは、先に赦すと言ったとしても、赦してやったんだからこれからはちゃんとするんだろうなあ、というような条件付きの赦しとなるのが関の山だろう。
しかし神の赦しは人間の思うようなそんな赦しではないらしい。何もかも完全に赦してしまう、そんな赦しのようだ。イエスの十字架の赦しはそんな完全な赦しなのだ。
そんな圧倒的な赦しをイエスは成し遂げた、と聖書は告げる。私たちはイエスの十字架の贖いによって赦されている、ということを聞いている。けれども実はその赦しをほんの小さなものと思いこんでいるのかもしれないと思う。
神を信じるようになったのに、こんなだらしない自分ではいけない、こんな自分では神に見捨てられてしまうに違いないというようなことを勝手に決めてしまうようなことがあるのではないか。これができない、あれもできない、何も出来ない自分を神はそれほど愛されてはいないのではないかと勝手に決めているのではないか。あるいはまた、自分の心の奥にあるようなどろどろした思いを神は赦されはしない、そんな思いを持っている自分を神は大事に思ってはいない、というようなことを勝手に思いこんでいるのではないか。
そんな風に自分で勝手に赦しを限定して、ここまでは流石に神さまでも赦しはしないだろう、というような思いを誰もが持っているのではないかと思う。
放蕩息子がそうだった。自分のことは赦されることではないと思っていた。自分は息子としての資格も失ったに等しいと思っていた。けれども親父は息子のすべてを赦し、息子を息子として迎え入れた。心から喜んで迎え入れた。これは絶対に赦されない、と自分で思うようなことも赦されているのだ。イエスの赦しはそういう完全な赦しなのだ。そんなことでは人は甘えてしまって却って堕落してしまうのではないか、と思うようなそれほどの赦しなのだ。そんな圧倒的な、完全な赦しなのだ。
甘やかして堕落してしまうのではないかと思うほどである。でも実は堕落してしまうのは完全な赦しでないからではないかと思う。今回は赦してやる、でも次にまたやったら承知しない、お前のためにどれほど苦労したかわかってんのか、なんていうような赦しならばまた同じことをしそうな気がする。けれども全面的な赦し、完全な赦しを前にしたならば人はそれに圧倒されるしかないのではないか。そんな人を圧倒し、根底から替えてしまうような赦し、それがイエスの赦しなのだろう。それはすべてを包み込んですべてを支える、そんな赦しだ。赦されたからには一歩も道をそれてはならない、決して失敗してはならない、少しも悪い思いを持ってもならない、いつも正しくしていなければならない、というようなことであればそれは大変苦しいことになる。赦されたとは言っても安心して生きていけそうにない。けれども、何度失敗しても、何度挫けてもそれでも支えられている、それでも守られている、それでも徹底的に守られている、そこで私たちは安心して生きて行ける。
そしてそれは私たちが放蕩息子が親父の家で息子として生きるためであったように、私たちが神と共に生きるため、神の声に聞きながら生きるための赦しでもあるのだろう。
だから私たちは自分の間違いや失敗や無能さにばかりこだわるのではなく、それらも全部ひっくるめて赦されていることを喜んで生きることが大事なのではないか。
そして一方的に完全な赦しを与えられたイエスが私たちに命令すること、それは神を愛し人を愛するということだ。赦してやったんだからもう絶対に罪を犯すんじゃないぞ、と脅しているわけではなく愛するものとなるようにというのだ。私たちは自分がどういう人間になるかということをとても気にする。自分がどれほど立派になれるか、どれほど人から誉められる人間になるか、どれほど間違いの少ない人間であるか、そういうことを一所懸命に心配する。そして自分が優れた人間になることを目指す。人よりもいろんなことができて、人よりもいろんなことを知っていて、人よりも正しくあると思うことで安心する。
でもイエスは自分がどうであるかというよりも、人を愛するようにというのだ。人と競争するのではなく愛するようにというのだ。愛するということは赦すということでもあるのだろう。徹底的に赦されているのだから、あなたも赦しなさいということだろう。そんな赦し合い、愛し合う関係を持つように、とイエスは言われている。私たちの現実はいろんなことで競争しいがみ合うことが多い。学校の成績がどれくらいか、どれくらい財産を持っているか、そしてどっちの方が正しいか、どっちの方が信仰深いかまで競争してしまうことがある。イエスは一番大事なことは愛することだと言う。愛するには先ずは自分が愛されていることを知ることだろう。そして自分が徹底的に赦されていることを知ることだろう。人と競争し人に勝つことを目指すとき、それは私たちが自分が赦された者であることを忘れている時なのではないかと思う。
徹底的に赦されていることを感謝し、喜び、安心して生きていこう。そしてそうしてくれている神に愛されていることを喜び、私たちも互いに愛する者となっていこう。