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礼拝メッセージより
説教題:「隣人」 2001年8月12日 聖書:申命記 24章5-22節
強く、大きく
強くなること、大きくなること、それを目指しているのが今の世界だ。金持ちになり、権力を持つこと、多くの名声を集めること、それがこの社会での成功者といわれている人たちの姿だ。
自分が力を持ち、自分が富を持ち、自分があらゆるものを持つこと、それを私たちも目指しているようなところがある。しかし世の中には富も力も限りがある。その中で自分が多くの物を持つためにはいろんなところから、いろんな人から集めないといけない。自分が多くの物を持つことを目指すならば、周りにいる人たちは仲間ではなく敵となる。敵ならばそこからいくら搾取しようが構わないということになるだろう。相手がどうなろうが、生きようが死のうが関係ない、ということになりそうだ。
保障
しかし申命記は、命そのものを質にとってはならないとあるように、人の最低限の生活を保障するようにということが書かれている。たとえお金や食べ物を借りないといけないような状態になっているような人に対しても、挽き臼あるいはその上石を質にとってはならないという。当時は穀物が主食だったそうで、上石を質にとられるとその日のパンを焼くことができなくなってしまう、そうすると命が危険にさらされるということになる。だからそれはしてはいけないということらしい。
また「担保を取るために、その家に入ってはならない」と言う。しかも、「その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない」、そして上着を担保にする場合でも日没には返さないといけないという。上着が布団代わりで、その上着を着て寝ていたそうで、その上着は最後の担保ということのようだ。貧しい人に対しては余計に冷たくあしらうような気持ちになることが多いような気がするが、貧しい人に対しては余計に大事にするようにということのようだ。また貧しい人には賃金はその日のうちに払わないといけないという。その人のその日の食べることに支障をきたすほど搾取するようなことがあってはならない、というのだ。
また、畑で借り入れをするときには少しは残しておくようにと言う。落ち穂拾いという有名な絵があるが、その落ち穂拾いもできないようにしてはいけない、それほど徹底的に収穫してはいけないと言うのだ。ぶどうの取り入れのときにも全部取ってしまってはいけないとも。残りの物は寄留者や孤児、寡婦のためのものだという。そんな弱い立場の者のために少しは残しておくようにと言うのだ。
誰のもの
自分の畑にできた物であれば一粒残らず収穫する、それは全部自分の物だ、と思うのが自然ではないかという気がする。でも聖書はどうもそうは言ってないようだ。
お金も作物も、それを持っている人のものではなく、全ては神のものであるということかもしれない、と思う。たまたまお金を多く持つことが出来ているのは神がたまたまその人に多く預けているからで、そのお金はその人だけのものではなく、貧しい人のものもいっしょに預けられているということなのかと思ってしまう。その同じ時を生きている人たちみんなのものをたまたま金持ちが預かっているということかなと思う。
畑の穀物やぶどうも、その畑や木の持ち主のものというだけではなく、その作物を育てた神のものであり、それはみんなが分けて食べるために神が育てたというような感覚があるような気がする。
何もかも自分のもの、自分だけのものとして独り占めしてしまうことをしてはいけないのだ、といっているようだ。
私たちは、私は自分の持ち物が少しでも増えるように、少しでも減らないようにというような気持ちでいる。自分の持ち分がどうなのかということにばかり関心があるという気がする。しかし聖書はそれよりも貧しい人たちのことを、弱い立場の人たちのことを配慮しなさい、その人たちのことを守りなさい、と言われているようだ。
祝福
まるで貧しい者の尊厳を徹底的に守ろうとしているかのようだ。寡婦の着物を質にとってはならないというのも寡婦の尊厳を守っているということのように聞こえる。
そして弱い立場の者の尊厳、人権を守ることは神の祝福にあずかることでもある、と繰り返し言っている。
共に生きる
隣人との関係を大事にして生きること。それが喜び。全てを独り占めして自分だけが全てを持ったとしても嬉しくないだろう。どれほど多くのお金を持ったとしても、そのお金を使って楽しむ相手がいなければ人生は空しいものとなるに違いないと思う。どんなに少ないものでも分け合う相手がいるならば、その人生は豊かな人生ではないかと思う。
確かマザーテレサだったと思うが、ある貧しい家庭に一袋の米か何かを持っていったとき、その家庭の人はすぐに裏の家に行ったという。何をしに行ったかと思ったらそのお米を半分分けてあげていた、そんな話しを聞いたことがある。
多くの物を取り合って競争したりけんかしたり戦争したりしている社会と、少ない物でも分け合おうとする社会とどちらが豊かなのだろうか。
豊かさは物がどれほどあるか、ということとは直接関係ないのではないかと思う。物がいっぱいあることが豊かではないだろう。物がないことが豊かというわけでもなく、物がどれほどあるかは関係なく、それを分ける相手がいるかどうか、神から与えられた物を分け合って一緒に感謝し一緒に喜ぶことの出来る相手がいること、それこそが豊かということではないかと思う。
競争
私たちはいろんな物を取り合う競争をしている。競争社会に生きている。物だけではなく、正しさも正義も競争しているのかもしれないと思う。どちらが正しいかという競争をしている。思い返せば小さい頃から競争させられてばかり、人と比較されてばかりいた。協力することも助け合うことも分け合うこともしてこなかったような気がする。協力というような言葉が額として書かれいたり訓話として聞かされることはあっても、実際はことあるごとに誰かと比較されて、誰かに勝つことがいいことだと言われていた。
分け合うこと、分かち合うことの喜びというものを経験することもあまりないままに来たような気がする。
苦しみの記憶
聖書は、エジプトで奴隷であったことを思い起こしなさい、ということを繰り返して語る。苦しんだ経験があるではないか、その時のことを思い出しなさい、あの時の苦しみを思い出しなさいと言っているようだ。
苦しみを経験した人はどういうことを思うのだろうか。苦しみを経験した俺たちはすごいんだぞ、と威張りたくなることもある。苦しかったから相手には苦しさを味わわせたくないと思うこともある。
聖書は苦しさを思い出しなさい、苦しかった時に何を願っていたかを思い出しなさいと言われているようだ。
そうすることが実は私たちの人生にとっても喜びなのだと思う。それは神の祝福である、と言われているが、それは私たちの喜びなのだろう。
新約聖書にも、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と言われている。人にしてほしいことを人にすること、それが聖書そのものだ、とイエスは言うのだ。あるいはまた「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とも言われている。これは教会そのもののあり方でもあると思う。教会の目的は、集まって何かを成し遂げることではんく、いたわり合うことだ、と誰かが書いていたがその通りだと思う。隣人をいたわること、愛すること、苦しみや悲しみを共感すること、それこそが教会の第一の目的だろう。そしてそれはする方もされる方も共に喜ぶことだ。
神を愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛しなさいというのが一番大事な戒めである、とイエスも言っている。
いわたり合い、愛し合う者の真ん中に神はいてくださる。