前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「逃れの場所」 2001年8月5日 聖書:申命記 19章1-13節
殺人
自分の身内が殺されたとなると人はどんな思いになるのだろうか。少し前に大阪の小学生が殺された事件があった。殺された子どもの親はどんな気持ちなんだろうか。想像もつかない。アメリカでは時々、学校の中で生徒が銃を乱射してほかの生徒や先生かが殺されるという事件がある。先日2年前の銃乱射の事件で殺された人の家族がテレビに出ていた。その中である人が、「あなたの気持ちはよく分かると言ってくれる人がいるが、私たちの気持ちは家族を殺された者にしか分からない」というようなことを言っていた。殺された側の悲しみや憎しみはどれほどのものなのだろうか。殺意を持って殺されれば尚更だろうが、殺意がなくても事故によってでも身内を亡くすということは大変な悲しみがあるのだろう。たとえ事故だとしても過失だとしても、大事な身内を殺した者を憎みどうにかしてやりたい、復讐してやりたいと思う気持ちになるのが当然なのではないかと思う。
目には目を、歯には歯を
この言葉が申命記19章21節に出てくる。この言葉は日本では復讐するときの言葉として使われることが多い。同じ言葉はレビ記24章20節にも出てくる。レビ記24章18-20節「家畜を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う。人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」日本では目には目をというのは復讐の原理のように思われているが、聖書が言うのは償いをどうするかということの中で言われている言葉であるということだ。人に傷害を加えた者は同じもので償わないといけない、というのだ。つまり、目には目で仕返しをしないといけないということではなく、目には目をもって賠償しないといけない、ということだ。相手の目を傷つけたならば、自分の目にを傷を与えて相手に賠償する、ということだ。
さらにこれは、賠償は本人自ら果たさないといけない、代理を立ててはいけない、ということも含まれている。金持ちだからといっても代わりに金を支払うことで済ませたり、身代わりに奴隷の目をつぶして償うというようなことは許されない、ということであったそうだ。
そしてまた目には目を償うということで、立場的に弱い者が償う時にも、強い者が目以上のものを求める、腹が立ったからといってもそれ以上のものを求めることをしてはならないということでもあったのだろう。
命
そういう風に同じもので償わないといけないということであった。レビ記24章17節にも「人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる」とある。しかし申命記では人を殺す場合でも、憎しみを持っていないで事故によって人を死なせた場合と、憎しみを持って意図的に殺人を犯した場合とを分けている。殺す意志がなく事故によって殺してしまった場合のために逃れの町をつくるように、と言われている。
悪を取り除く
償うべき以上のものを求めることで悪に悪で報いてはいけない。
逃れの町
償うべき以上のものを求めることで悪に悪で報いることがないようにというためのことらしい。
過失によって人を殺してしまった人を、殺された側が怒りにまかせて復讐してはいけないという。復讐してしまうことで逆に自分が罪を持つこと、そこに悪が残ることのないようにする。
また過失によって人を殺してしまった者にとっては文字通り逃げていく町であり、命の保証される町であった。
殺された側、殺された者の身内にとっては、自分の身内を事故にしろ何にしろ殺されたという恨みを持つのは自然の感情だろう。しかしそうであっても、その復讐をしてはいけない、逃れの町に逃れた者に復讐はできないということであった。事故により人を死なせた者は死に当たる罪を持っているわけではない、というわけだ。死に価しない者に復讐して殺すということは、逆にそちら側が殺されなければならない罪を犯すことになる。逃れの町を作ることで、感情的になって人を殺すような罪を犯すことがないようにということだ。
そこに逃れた者は自分の町を離れなければならない、ということになる。それがその人に対する罰であるということかもしれない。そしてその人たちも、その時の大祭司が死ねば自分の町へ帰っていくことができたそうだ。
教会
人はそれぞれいろんな痛みや重荷を負って生きている。人を傷つけ、逆に人に傷つけられしながら生きている。ついつい人を傷つけてしまうことや、人を殺してしまうこともあるかもしれない。あんなことをしてしまった、という思いをずっと抱えたままで、その思いを引きずったままで生きていくことはとても大変なことだ。とても辛いことだ。そこにいれば安心である、そこにいれば罪を問われることはない、そんなところがあるかないかで人生は変わってくるだろう。
車で人を轢いてしまい、ついその場を逃げてしまった人のことをテレビでみたことがある。デートの後酒を飲んで車で帰る途中に、雨の中を横断してきて人を轢いてしまったそうだ。トラックの運転手だったそうだから酒飲み運転で捕まると仕事に支障が出ると思ったのだろうか。ただ人を轢いたというショックだったのだろうか。そこを逃げてしまった。そして車を友だちに預け、仕事も辞めずっと逃げているという内容だった。
かなりまじめな人だったみたいで、だから余計に人を轢いてしまったというショックが大きかったのかもしれない。しかし彼は逃げている間中その轢き逃げ事故に追いかけ回されているようなものだろう。事故現場から逃げたことで、余計に轢き逃げを起こしてしまったという現実、そして後悔や苦しみからは逃げられなくなってしまっていることだろう。いつ見つかるか、今日は見つかるか、という苦しい思いをずっと抱えたままで毎日を過ごさないといけないだろう。今の社会にも逃れの町があるならば、彼もそこで生きていけるかもしれない、と思ったりする。
逃れの場所
私たちもいろんな苦しみを持って生きている。いろんな悲しみをもって生きている。これを知られたらどうなるだろうかと心配で仕方ないような嫌らしいものを誰もが心の中に秘めているのではないか。
あるいはまたこの世のいろんなしがらみの中で疲れ果てて、弱り果てている人がいっぱいいるのではないか。あなたはここがダメなんです、ここが悪いんです、と言われてたり、言われるに違いないと思って苦しんで知る人がきっといっぱいいるだろう。安心できる場所もほっと出来る場所もなくて苦しみを一人で抱えている人がいっぱいいるに違いないと思う。日本では自殺する人が年間3万人くらいいるとか聞く。自殺することが罪だ悪だ、と簡単には言えないだろう。自殺するまでの苦しみはどんなだろうか。
教会は逃れの場所だ、というような言い方をすることがある。教会は安心できる場所なのだろうか。苦しみを抱えている人が休める場所なのだろうか。そんな人たちを受け止めることが出来る場所なのだろうか。ぜひそうありたいと願っている。
教会はそこにやってくる人たちをどうしようとしているのだろうか。教会は教会にやってくる人をよい人間にしてあげるところなのか。あるいは社会に通用する人間に強い人間にしてあげるところなのか。教会は教会にやってくる人を作りかえることが務めなのだろうか。きっと違うと思う。それは神さまがすることだろう。私たちは教会に来る人たちを、傷つき苦しんでいるその人をそのままにありのままに受け止めていくこと、その人の苦しみや悲しみを聞いていくこと、その人を愛していくこと、それが私たちの務めなのではないかと思う。いろんな過去を背負って教会にやってくる、いろんな罪を背負ってやってくる、それは私たちも同じことだ。そんな私たちを神は受け止めてくれている。そのままの私たちを受け止めてくれている。そして神は、あなたの罪は赦されてる、あなたを罰することはしない、と言ってくださっているのだ。教会とは本来そんな安心できる逃れの場だろうと思う。そこで休める場だろう。私たちもその逃れの場所に逃げてきている者たちでもあるのだ。
世の中の多くの人がきっとそんな場所を求めている。