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礼拝メッセージより
説教題:「神の選び」 2001年7月29日 聖書:申命記 17章14-20節
選挙
今日は選挙。どんな人を選ぶのか。どういう考えで選んでいるのか。自分の会社が儲かる人、自分たちがいい思いをする人、自分が得をする人を選んでいるのかな。それだけじゃいけないとは思う。ではどんな人を選ぶのか。誰を選ぶのか。実際誰がいいのかよく分からない。誰がどんなことを考えているのかもよくわからない。
王
イスラエルの王に関する規定。
主が選ばれる者を王とする。主が選ばれる者が王となる、という。
同胞の中から選ぶ。
自分のために馬を増やしてはならない、そのために民をエジプトの送り返してはいけない。
自分のために大勢の妻をめとってはならない。
自分のために銀や金を大量に蓄えてはならない。
律法の写しを傍らに置き、それを読み返し、主を畏れることを学び、律法を守る。
主の選び
王となる第一の条件は主が選ばれる者であるということ。同胞の中から選ぶようにということもあるが、選ばれる条件はほとんど一つだけ、主が選ばれる者という条件しかない。
私たちがリーダーを選ぶときどういう人を選ぶだろうか。どんな人を選ぶか。指導力があって、実行力があって、あれができて、これができて、というような人を選ぶことが多い。ところがそういう条件はここにはいっさい出てこない。ただ神が選んだ者が王となるのだ、と言っている。ではどういう基準で神が選ぶのかということもやはり書かれていない。
どうしてこんな人を神は選んだのか、というような事が当然起こりうる。こんな人は王にふさわしくない、というような思いを抱くこともあったかもしれない。どうしてこの人を、ということに対する答えは、ただ主が選ばれたからだ、としかいいようがない。
私腹
そうして選ばれた王がどのようにすべきかということが続いて書かれている。馬を増やしてはならない、大勢の妻をめとってはならない、銀や金を大量に蓄えてはならない。新共同訳の聖書には訳されていないが、ここには「自分のために」という言葉があるらしい。つまり王が私腹を肥やし権力を独り占めするようなことがあってはならない、というのだ。多くの妻というのは、そのことによって外国の宗教に染まってしまうことのないように、ということのようだ。これは実際に政略結婚によって大勢の妻をめとり、異教の神を拝むようになっていった王がいたということの反映であろう。
神との関係
そしてなにより聖書の語るリーダー像は、神との関係に生きる人。神の言葉を聞く人。神の言葉に生きる人。
祭司のもとにある原本から律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、律法のすべての言葉とこられの掟を忠実に守らねばならない、と全くご丁寧に言われている。律法を通して神の意志を聞き、自分のあるべき姿をそこから聞いていくというのだ。そういう神との関係の中に生きること、それが王に求められている。
そしてそうやって律法を読み神の意志を聞いていくことで、同胞を見下して高ぶることがなくなるというのだ。
同胞を見下さない人を選ぶのではなく、律法を読むことによって、神の言葉を聞くことによって見下さなくなる、高ぶることがなくなるというのだ。逆に言えば、人を見下したり高ぶったりする人は神の言葉を聞いていないということなのだろう。
現実
教会でもいろんなリーダーを選ぶ。どういう風に選んでいるだろうか。社会的な信用のある人とか、経験を積んでいる人とかいう風にやっぱり何かが出来る人、やれる自信のある人を選ぶような時が多いのではないか。あるいはまた反対に自分はしたことがない、自分は社会的にも認められないから、だから何もできないのだ、私には何もさせないでくれ、というようなことが多いのではないか。
しかし聖書がいうように一番は神が選んでいるかどうかだ。神が誰を選ぶかだ。神が誰を選ばれるのかと言うことを聞くことがまず第一ということだ。そして選ばれたリーダーは神に聞いていけばいいのだ。
王が人を見下し高ぶる者ではないように、リーダーも人の上に立つ者ではなく、人に仕える者、下から支える者ということだろう。リーダーは偉い人ではないわけだ。偉い人になるわけではないのだ。人に仕える者、人を下から支える者となるのだ。教会のいろんな役があるが、それもこれも人に仕える者となるということだろう。人の上に立つことの出来る人はそんなにはいないだろうが、人に仕えることはきっと誰にでもできる。要は神が誰を選ぶかということだ。
外国人が王になれないとか、多くの妻をめとってはならないというのも、外国人は主なる神を知らないし、外国の妻をめとることで外国の神を拝むようになることで主の声を聞かなくなってしまうという恐れがあるからしてはいけないということなのだろう。
言葉
すべての根本は聖書に聞いていかねばならない。神の言葉に聞いていかねば。誰を選ばれるのかも神に聞き、その選ばれた者がどうするかも神に聞かねばならない。
私たちは選ぶときも、選ばれた後もそれだけの能力があるかどうか、ということにばかり注目しすぎているのかもしれない。そしてその能力が自分にはないからできない、ということを思いすぎているのかもしれない。
教会の中心
私たちはもうすでに神に選ばれた者でもある。
目立つ活動をした者や、成果の上がった活動をした者が中心になったり、知識が多かったり、分別をわきまえている者(そんな顔をしている者)が支配する集団はこの世のもの。
イエスによって立てられている国はこの世のものではない。イエスの流された血によって立てられる神の国では、イエスとの交わりの中に生きている者こそが中心にいる。教会では、そういう人が中心にいる。教会の中心は社会的に名声を得ている人ではなく、地位の高い人でもなく、難しいことばかり喋っている者ではなく、イエスとの交わりに生きている者なんだ。イエスのそばにいる人なんだ。そしてイエスと同じように人に仕えている者こそ教会の中心だ。そのことに気づいていてもいなくても、きっとそうだ。私なんか何も出来ず教会のためになんの役にも立っていないと思っている人こそ、教会の真ん中に立たされているのかもしれない。
イエスの弟子たちもそんな人たちだった。イエスはとても社会の真ん中には立てないような12人を宣教につかわす。悪霊を追い出す権能を持たせる。12人の弟子たちは悪霊に対する力も知恵もまるでない者たちだ。しかしそんな弟子たちにイエスは悪霊を追い出す権能を持たせる。
12人の中には、漁師、徴税人、熱心党これは革命家、今で言うテロリストがいた。そして裏切り者も。このリストにはどんな人物であったか、どんな能力を持っていたか、そんなことは聖書には何も書いてない。ほとんどが名前だけ。ただイエスが12人を立てたという事実にのみ関心があるみたい。
12人は考えや立場が一致した集団でもなかった。片やローマの側についている徴税人がいるかと思えば、ローマからイスラエルを独立させようとする革命家がいた。雑然としたまとまりのない集団。共通点は、ただイエスによって選ばれたということだけのようだ。
神に選ばれた集団
今の教会もこの12人と同じような集団。教会にもいろんな立場の違い、考え方の違い、才能や賜物の違い、そして信仰だってまるで同じではないだろう。教会も何か同じ志を持って集まってきた集団ではなく、ただイエスによって選ばれ集められた集団である。
私たちもイエスにふさわしいから、神の国にふさわしいから選ばれたのではなく、試験にパスしたから、条件にあったから選ばれ招かれたのではない。私なんかがどうして、と考えても答えは出てこない。合理的な答えは多分なんにもないだろう。あれもできない、これもできない、とかなんとか考えてると、教会に来ていること自体間違ったことと思うかもしれない。そういう風に考えても辻褄は会わないだろう。
ならばどうしてここにいるのか。答えはただ一つ、ただイエスが、神が招いたから。自分の何がいいとか悪いとかいうこととは一切関係なく、ただイエスが神が招いたから、だからここにいる。それ以外の理由はない。ただ神がそうしたから。理由を自分の中に探してもない。理由は神の側にあるんだから。
私たちは世に仕えるためにすでに神に選ばれた者たちでもあるのではないか。私たちも神に聞いて世に仕えて行こう。