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礼拝メッセージより
説教題:「手を開きなさい」 2001年7月22日 聖書:申命記 15章7-18節
にぎりしめて
財布の紐が固くなるとか紐がゆるむとかいう。紐で縛る財布を持っている人がどれくらいいるかは知らないが。
人は自分の物は手放したくない。自分が稼いだものだから、一所懸命に働いて得た報酬なんだからそれは当然だ。人のためにそれを寄付するとか献金するなんてよっぽど出来た人ならいざ知らず、凡人にはそんなことはできないと思う。はした金ならできるけど、という感じだ。
でも報酬はその人の労働に見合っているとは限らない。同じ時間働いても賃金は違う。CDを売っただけで何億も稼ぐ歌手もいるが、それだけの労働をしているかとなるとそうではないだろう。たまたま土地を持っているということでお金を手に入れる人もいるし、パートで一所懸命働いても時給700円というような人もいる。その人の持っているお金の量がその人の価値でもないし、その人の働きの多さと比例しているわけでもないし、働きの尊さと比例しているわけでもない。まじめに働いていても会社が倒産してしまったら苦しくなってしまう。自分の能力や働き、あるいは人間の価値と、自分の所有する財産とは一致しないことが多い。ならばたまたまいっぱいお金を手にすることが出来ている人はラッキーだと喜んでいればいいのだろうか。
すべてはあなたのもの
ある教派の礼拝の献金の祈りの最後のとろこで、「すべてはあなたのもの」というのがあった。それはその教派の式文の中にある決まった祈りのようだった。
私たちは献金するときによく、僅かな物をささげますという。自分の持ち物の中から少しだけど献金しようか、という気持ちなのだろうか。あるいは精一杯しているけど謙遜してそう言うのだろうか。よくわからないが、どちらにしても自分の持ち物から献金するという意識が強いのではないかと思う。
しかしさっきの教派の献金は「全てはあなたのもの」全ては神のものだという。その神のものを自分たちはもらっている、もらっているというより預かっているという感じがする。そこから神に献金するということは神に返すということになる。そしてそれは自分以外の誰かのための差し出すということになる。お金は自分のものなのか、それとも神のものなのか。
免除
聖書によると、7年目ごとに負債を免除しなければいけないとか、7年目には奴隷を解放しなければいけないという決まりがあった。
借りた物は返さないといけないと言われて育ってきた。当然そうだろうと思う。ところが聖書には7年目ごとに負債を免除しないといけない、というのだ。外国人からは取り立ててもいいが、なんていうのもあるが、同胞の隣人からは取り立ててはいけない、というのだ。そしてその7年目が近づいているから、返してもらう前に負債を免除しないといけなくなるから貸すのをやめとこう、ということもするなという。そんなことしたら罪に問われるなんてことまで。そして与えるときも心に未練があってはならないなんて。それはちょっとひどいという気もする。借りた者が得するばかりじゃないか、と思う。
祝福
負債は7年目には免除しないといけないし、貸すことをいやがってもいけないなんて、そんなことしたらこっちが破産してしまう、という心配が起こってきそうだ。破産したら借りればいいのかもしれないが。
でも面白いことにこんなことも言われている。「このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる」というのだ。負債を免除するために、貧しい人に貸すために神が祝福してくださるというのだ。人に貸すことができるというのは神がそういう風にしているからだ、神が祝福してくれているからだ、と言うのだ。
負債を免除し、貸すことをしぶるな、というのは自分の持ち物が減ってしまおうがどうしようが俺の命令は守れ、という風に神が言っているわけではない。神がそのために祝福しているから、その分をすでに与えているから、だからそうしなさい、ということだ。誰かのために使う分をいっしょに与えているのだからそうしなさいということのようだ。だとするとその分まで自分のものにしてしまうとなると、それは神から誰かのために預かっている分を自分が取ってしまうということになるのかもしれない。そこまで言うと言い過ぎかな。
奴隷
同じように奴隷も6年間仕えたならば7年目には自由の身としてさらさねばならない、という。この奴隷というのは借金のために自ら奴隷となった人のことらしいが、そういう人もずっと奴隷にしておくことはできないという。しかも手ぶらでさらせてはいけない、贈り物を持たせなさいというのだ。またすぐに奴隷になってしまうことのないようにということのようだが、その贈り物も神が祝福された物だから、だから惜しみなく与えなさいというのだ。
奴隷は主人の持ち物のようなものだったらしく、取り引きされたりするようなこともあったそうだが、それでもずっと物としておいてはいけないということのようだ。それはかつて自分たちの先祖がエジプトで奴隷であったのを神によって救い出されたからだというのだ。自分たちも神によって解放され自由にされた者なのだ。だからまた奴隷のままでいるようなことのないように、ということのようだ。何かの事情で奴隷になるようなことがあっても、そのまま奴隷で過ごすということを神は望んではいない。また奴隷に対しても6年間雇い人の2倍働いた者として解放しなさいというのだ。奴隷だから24時間労働をしてるようなものだから雇い人の2倍働いているということだろう。
解放
お金にしても奴隷にしても、一度手にしたものはなるべく手放したくない、自分の所にとどめて置きたいと願う。しっかりと握りしめてなくならないようにしようと思う。お金がなければ生きていけない、だから手放さないようにと考える。そして何とか自分のとこのお金が減らないように、増えるようにと考える。自分ちがどうなのか、そのことに必死になる。そして自分の財産にしがみついてしまう。そうやって実は逆にお金に縛られてしまうようなことが結構多いのではないかと思う。
でも神は負債を免除するように、惜しみなく貸すように、惜しみなく施すようにという。お金は自分が生きるためのものでもあるし、また隣人を生かすためのものでもあるということのようだ。
神の前に平等だという言葉を聞く。しかし神はみんなに同じだけお金を与えられるわけではない。多く与えられた人もそうでない人もいる。案外それはみんなで融通するためにそうしているのかもしれない。隣人を配慮するために、隣人のことに心を配るために、隣人を愛するためにそうしているのかもしれない。
自分の財産、自分の能力を誰かのために使う、そのために神は私たちにその財産や能力を与えられているらしい。
どっかの牧師が、献金することは恵みなのだ、と言ったそうだ。そうしたら献金が減ったとか減らないとか。献金することは誰かと共に生きるようにと神から預かったものを返すということでもあるのだろう。誰かと一緒に生きる事、それはきっと恵みだろう。またお金に縛られている自分を解放するということでもあるのだろう。
自分がいくら多くの財産や能力を持っていても、それをただ溜め込んでいても、それを握りしめていても嬉しくなんともない、楽しくもない。それを誰かと分かち合うことで喜びが生まれる。歌が上手く歌えても、ピアノを上手く弾けても、それを誰にも披露することがなければ大した喜びではないだろう。それを聞いてくれて喜んでくれる相手がいることでその喜びは爆発する。
自分の持ち物を握りしめていては誰とも握手することはできない。手を開いて、持ち物を離してしまうことで初めて握手することができる。握手することは持ち物を握りしめることよりも遙かに嬉しいことだ。握りしめているものに縛り付けられるのではなく、それを離し、そのものから解放されて、握手する相手を、共に生きる相手を見ること、それこそが本当の喜びだろう。
手放したら減ってしまう、なくなってしまうということは私たちは心配する。しかし神はいう、心配するな私があなたを祝福するのだ、あなたが隣人と生きるために隣人と分け合うようにあなたを祝福しているのだ。だから心配しないで隣人のことを見なさい、隣人を愛しなさい、そして隣人と共に生きなさい、そう言われているのではないか。