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礼拝メッセージより
説教題:「選びの場所」 2001年7月15日 聖書:申命記 12章1-14節
儀式
宗教にはいろんな儀式がある。祭りの時にはこういうふうにしなければいけない、というようなことが細かくあるようだ。そこではあらゆることを決められたようにしないといけない。そして大概その決まりは増えていって、こういうときはこうしなければいけない、というようなことを言い出す人が現れると、次の年からはそれも全部しきたりになって、やがてはそれが伝統となっていく、ような気がする。本当はどうでもいいことまで、こうしなければいけない、という決まり事になってしまう傾向にあるように思う。そうすると本当に大事なことが何なのか分からなくなり、決められたとおりとか今までの通りにすること、伝統に則ってすること、たとえそれが何のためにやっているのかなんてことは問題ではなくなり、分かろうが分かるまいがとにかくその通りにすること自体が大事になってくる。そして形だけは立派になっていったり、きらびやかになっていったりしながら、実は意味が全然分からないということになることがあるようだ。あるいは本当に大事なことが分からなくなって、きれいに豪華になっていくにつれて、本来の道からそれてしまうなんてことにもなりかねない。
滅亡前夜
紀元前7世紀後半、南王国ユダのヨシヤ王は神殿の修復を行ったが、その時に律法の書を発見。その書を聞きヨシヤ王は現状がいかに律法とかけはなれているかを知ってショックを受け改革を行った。今のようなことをしていては神に裁かれ災いが起こると考えた。その時の改革が後にヨシヤの宗教改革といわれる出来事だった。その時に読まれた中に今日の申命記の12章も含まれていると考えられているらしい。
当時の神殿には主なる神を礼拝するだけではなく、地元の神であったバアルやアシュラという神の像があったり、その神のお祭りの道具なども置いてあったようだ。
モーセの十戒にも偶像を作ってはいけない、と言われているようだが、それが実際にはいろんな像が作られていた。
影響
かつてユダヤ人はモーセに率いられてエジプトを脱出し、今のイスラエルのある地方へと帰ってきた。しかしもちろんその場所は、彼らが帰ってくるために空けてもらっていたわけではない。原住民が住んでいた。彼らの土地を少しずつ奪いながら自分たちのものにしてきた。しかし原住民を皆殺しにしていったわけではなく、奴隷にしたりなどしてその土地で一緒に暮らしてもきた。そして彼らからもいろんなことの影響を受けてきたようだ。
そこで彼らの神であるバアルやアシェラをユダヤ人も拝むようなこともあったようだ。しかしどうして偶像を拝んではいけないといわれていたユダヤ人があからさまにそのようなものを拝むようなことになったのだろうか。
ヨシヤ王はユダヤの国が南北に別れた南側のユダの王であった。北のイスラエルも滅亡する前には同じような状況であった。ホセア書にはその当時の様子が出てくる。それによると、イスラエルでも主にいけにえをささげながら、バアルの神を礼拝する時の儀式も行っていたらしい。神殿娼婦がいたことも書かれている。バアルは豊穣の神で、神殿娼婦も豊作を願う儀式を担っていたらしい。
本来主なる神との関係を正しく持つための神殿、自分の罪を赦してもらうための献げ物をする場所で、どうして偶像であるバアルの儀式を行うようなことになったのだろうか。しかも彼らは主なる神を捨ててバアルを信じたのではなく、主にいけにえをささげることは続けていたというのだ。本来の献げ物をしながら、おかしな儀式もするようになったというわけだ。
原住民との交流を持つうちに、だんだんとこれも大事、こういうこともしたらいい、献げ物をするだけじゃなくてこんなこともしてもいいんじゃないか、なんてことから、少しずついろんなしきたりが入り込んできたのではないだろうか。あるいはあの人がこうしていたから同じようにしましょう、なんてことからやがてしきたりになったりすることもある。
聞くこと
何が本当に大事なことなのか、そのことがはっきりしなくなってくることからいろんなおかしなことが起こってくるような気がする。何が大事で何のためにやっているのかよく分からないから、とにかくしきたり通り、去年の通り、あの人のやっている通りにするということが結構多いような気がする。
僕もそうだった。今でもそんな気持ちが結構ある。教会で行う結婚式にしても葬儀にしても、とにかく抜かりなくしないといけない、というような気持ちがどうしても強くて、そうすると一から十まで決められている通りにしないといけないような気になってしまう。この時はどうするのか、こういうときにはどうするのか、そんないろんな細かなことがやたらと心配になってくる。決められた通りにしておけばとりあえずは安心ではあるが、本当は何が大事なのか何のためにやっているのか、そんなことは全然わかってない。
礼拝もそうだ。礼拝の時にはこうしなければいけない、というようなことがいっぱいある。いつもこうしているからしないといけないような気になっていることもいっぱいある。司会者はとちってはいけないなんてことはない。献金の時にいったん後までいかないといけないわけではない、と僕は思っているのだが。本当に大事にしないといけないことは何なのか。どうでもいいことは何なのか、それをいつも吟味しないといけない。
だからいつも神に聞いていなければいけない。神に聞いていくことで正しい道に戻ることが出来る。そして礼拝とは何よりもその神の言葉を聞くこと、それが私たちにとっての礼拝だ。礼拝はただの儀式ではない。ただ教会に来て立ったり座ったりして、お勤めがおわって時間になったら帰るというだけの儀式ではない。そこで神の声を聞くこと、神の赦しの言葉を聞くこと、それこそが礼拝だ。
ヨシヤ王は律法の書を発見することで宗教改革を行った。それまでは律法を聞くこともなかったということだ。神の言葉を聞くこともないままに宗教儀式をしていたということだ。そこで彼らはバアルやアシェラの像を礼拝するようになっていった。神に聞かないことが偶像礼拝をするようになった原因だろう。
偶像礼拝
申命記には偶像を壊せ、偶像を礼拝するなと書かれている。偶像とは何なのか。偶像を礼拝するとは何なのか。
「偶像礼拝は、手で作ったものを拝することに留まらない。究極すると、自分に似せて作ったものを拝むのである。偶像から遠ざかる生活とは、自分が神でないということを明らかにしつつ生きることである。多くの異教から実を守るというようなことではなく、むしろ、人間を人間として守るように努力することである。異教は、人間を神とするところに生まれる。」(キリスト新聞6/23)
偶像礼拝は何かの像を拝むことだけではなく、神でないものを神とすることだ。神の声よりも他のものを大事にすることだ。神の言葉よりも自分の考えを優先することだ。神をさしおいて自分を正しいと思うこと、あるいは、自分が罪を持っている間違いを持っているものであることを忘れてしまうこと、そして人を裁くこと、それが偶像礼拝だろう。
喜び
申命記では偶像礼拝を一掃し、まことの神にささげものをしなさいという。そしてそこで喜び祝いなさいという。7節では、「あなたたちの神、主の御前で家族と共に食べ、あなたたちの手の働きをすべて喜び祝いなさい。」12節では「あなたたちの神、主の御前で、息子、娘、男女の奴隷、町の中に住むレビ人と共に、喜び祝いなさい。」という。
ささげものをして、神との関係の中に生きること、そのことを家族と共に、あるいは奴隷やレビ人と共に喜び祝いなさいという。それはまた現在の礼拝にも言えることだろう。
共に神の声を聞き、神との関係の中に生きることを喜び祝うこと、それこそが礼拝だ。礼拝という儀式を守り、これで今週のお勤めも無事に終えた、というのはちょっと違うだろう。礼拝にあんなかっこうでくるなんてとか、あの人はまた礼拝を休んでけしからん、というような思いで周りを見回すようなことではないだろう。決められたしきたりを守るために礼拝をしているわけではない。神に何かをしてもらうために神の言いつけを守る、そのために礼拝しているわけではない。守らないと悪いことが起こるかもしれないから守らないといけないということで礼拝している訳ではない。
7節「あなたたちの神、主の御前で家族と共に食べ、あなたたちの手の働きをすべて喜び祝いなさい。あなたの神、主はあなたを祝福されているからである。」みんなで神の前の集まり、神の声を聞くことを喜ぶ、また神が私たちを祝福されていることを喜ぶ、それが礼拝だ。祝福してもらうために礼拝しているのではなく、祝福されているから礼拝するのだ。もうすでにイエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪を赦してくださっていること、そしてもうすでに私たちを神の子としてくれていること、それを喜び祝うこと、それが礼拝だ。