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礼拝メッセージより
説教題:「無駄遣い」 2001年6月24日 聖書:マルコによる福音書 14章3-9節
大学の時、ある人がこんなことを言っていた。大事な人に会うために遅れそうになったとき、タクシーを使うことは全然勿体ないとは思わない、ということだった。とにかくお金を使うことは勿体ないことだと思っていた私はびっくりした。そんなもんだろうか、と思った。
イエスがライ病の人シモンの家で食卓に着いていたときの話。
一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
ナルドというのは、ヒマラヤ山脈原産のナルドという植物の根から取った、非常に高価な芳ばしい香料、だそうだ。その後の話からするとその香油は300デナリオン以上に売れるものだったらしい。1デナリオンが一日の賃金だから、1日の給料を1万円とすると300万円以上のしろものだったようだ。その香油をこの人はイエスの頭にかけてしまった。壺を壊して。壊すということは全部使ってしまうということだろう。壊してまでかけなくても、少しだけにしとけば残りを持って帰ることもできたのに。
300万円あればなにをするだろうか、と浅ましい考えをする。そんな高価なものを頭からぶちまけてしまって、誰だって怒りたくもなる。
「貧しい人に施すことができたのに」と言って彼女を厳しくとがめた人がいたという。確かに正論だ。その香油を売ったお金で貧しい人に施すこともできただろう。
でも案外本心は「何でそんなもったいないことをするのか。そんな無駄使いをするんなら俺にくれ。」と言いたかったのではないかと思ったり。本心はいえないが、腹が立って仕方ないから、貧しい人たちに施すことができたのに」なんて建前を言ったのかも。本心は知る由もないが、しかしこの無駄遣いだ、と言った人にとても親近感を持つ。
しかし、イエスは「するままにさせておきなさい」と言われる。そういえば、人々がイエスにさわってもらうために幼子を連れてきたときにも「そのままにしておけ」と言っていた。
さらにイエスは「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」とまで言われる。このことは良いことだと言うのだ。周りのものが厳しくしかっていることに対して、いかにも無駄使いと思えるようなことに対して、イエスは、これは良いことだと言われる。さらに、世界中どこでも、福音がのべ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう、とまで。記念ということばは、主の晩餐を、わたしの記念として行ないなさい、と言われたときの言葉で、他では見あたらないらしい。つまりイエスの死を記念するのと同様にこのことを記念すると言うことのようだ。
小さい頃から無駄使いをしてはいけないと言い続けられてきた。勿体ない、といつもいわれてきた。確かにそれは大事なことだと思う。勿体ないことをしているということが今の世の中多すぎるんではないかと思う。無駄なことが多すぎる。しかし、なにが無駄なのか、なにが無駄でないのかを判断するのは難しい。無駄遣いをしてはいけない、ということで結局はお金を使うこと全てがよくないこと、というようなイメージがある。何も買わないことが一番無駄遣いがないことにはなる。けれども現実には使うべきところには使わないといけない。大事なところには使わなければいけない。
何が大事なのか。今の社会ではすべての基準がお金になっているように思う。いかに安く、いかに金をかけないで、効率よくするか。そのことを第一にしてきた。
会社に行っていたときに、そこでは同じような書類とか図面とかを良く作るのだが、ある時、何かの書類を最初から手で書いていたところ、上司が、そんなものはいちいち書くな。似たような書類があるのだから、それをコピーして、違っているところだけを書き換えればいい、最初から書いていては時間がかかるばかりだ、それだけの時間の方が高くつく、というようなことを言っていた。コピー代の数十円をケチって、人件費の何千円かを損している、と言うことのようだ。時は金なり、ということはこういうことか、と改めて思った次第だ。
とにかくお金が無駄かどうかの基準になっている面がある。同じものならば安いものを買う、ということが、僕の中には染みついている。誰が教えたのか覚えていないが、そうだ。そのために余計に無駄になることもあった。安物買いの銭失い、と言う奴だ。安いものを買ったのはいいが、結局あまり役に立たず、後でもう一度買い直すなんてこともあったように思う。いくらかかるかということが全部基準になっているようなところがある。こういうのも金の奴隷になっている、お金に縛られている、ということなのかもしれない。金の奴隷は大金持ちだけの話ではないのかもしれない。
そこにいた人たちも、すぐにお金のことに話がいっている。やはり彼らも金が無駄かどうかの基準だったのだろう。でもやっぱり300万円の香油を一気に使い切ってしまうなんて人のことの聞くとワァーと思ってしまうのは私だけでしょうか。もし私がその場にいたら何でそんなことをするのか、といいそうだ。あまりの衝撃に腹を立てるかもしれない。何でそんなことをするのか、と。
しかしみんなこのときの状況を正しく把握してはいなかった。イエスだけが知っていたのだろう。このことが埋葬の準備になるという。しかし女の人はそんなこともよく分かってはいなかったような気がする。彼女は自分の全てをイエスにかけたということなのではないか。彼女にとって何よりも高価な大事な、そして石膏の壺に入れ大事にしてきた香油、それももうどうでもいい、というような崖っぷちにいたのではないかと思う。絶望するような状況の中にあったのではないか。大事にしていた高価な香油さえも、自分を助けてはくれない、それを持っていてもそんなことでは人生の支えにならない、何か支えが欲しいけれどもそれが見あたらない、そんな倒れそうな状況の中にいたのではないか。そこで彼女はイエスにすべてをかけたのではないか。300デナリオンの香油をイエスの頭にかけた、それは彼女の全てをイエスにかけたということでもあるように思う。
12章41節以下に、レプトン銅貨2枚を献金した人の話が出ている。10円玉か50円玉くらいだろうか。その銅貨2枚を献金した貧しいやもめが誰よりもたくさん献金したのだ、とイエスは言った。それは彼女の生活費全てだったからだと言うのだ。全てをささげるということは全てを任すということだろう。全てを神に任す、それが全てをささげるということになった。持ち金全部を出したこともすごいが、それよりも、お金と一緒に自分の全てをささげた、自分自身をも含めて全部をささげたということでもあったのだろう。だからイエスはこの人がだれよりもたくさんささげた、と言ったのだろう。
イエスに香油をかけた女も、油だけではなく自分自身をもイエスにかけたということだろう。油を頭にかけるという行為は王となる儀式でもあった。彼女は個人的な王とした。個人的なキリストとした。
大事に大事にとっていた高価な香油だったのだろう。いざというときにはその香油を処分して金に換えるためにとっていたのかもしれない。しかしその香油を全部使ってしまった。壺を壊してイエスにかけた。ということは全部をかけた、残しておくつもりはなかった、ということだ。
彼女はもうそんなものはどうでも良くなったのだ。この世のことはどうでも良くなっていたのだ。この世には絶望していたのかも。だからこの世で生きるためにとっておいた香油も使ってしまったのだ。この世に絶望して、ただイエスにすがりついた。イエスに対する並々ならぬ思いがあったから、こんなことをしたというのは事実だろう。しかしきっとそれだけではない。絶望が彼女の中にあったに違いない、と思える。高価なものをもささげるすばらしい信仰心が彼女のあったからこうした、というよりも、彼女にとっては、それがいくらなのか、などということは頭の中にはなかったに違いない。ただイエスの元へ倒れ込んでいった女の姿がそこにあるように思える。
しかし、その彼女をイエスは受け止め、賞賛している。イエスによって彼女は逆にこの世を生きる力を与えられたことだろう。
しかしこの行為を無駄遣いだ、と言った人がいた。300万円以上に売って貧しい人に施せたのに、と。理屈としては確かにその通りだ。
イエスはそれに対して、貧しい人々はいつもあなたたがと一緒にいるから、したいときによいことをしてやれる。なんて答えている。実はがみがみ言う人ほど施しはしてないのかもしれない、と思う。300万円あれば施しが出来る、という人ほど、それがないからできない、ということが多いような気がする。 これだけあれば、あれだけあれば、なんてことが多い。もう少し余裕ができれば、そういいながら結局何もしないことが多い。イエスは貧しい人々はいつもあなたと共にいる、という。したいときにはいつでも出来る、という。出来るのにしてないじゃないか、なのに、この女の人に対しては文句ばかりいうのか、ということを言っているのかもしれない。
この人はできるかぎりのことをした、とイエスは言う。
私たちもできるかぎりのことをしている人に対してとやかく文句を言うことが多いのかもしれない。一所懸命にしていることに対して、こうやった方がいい、こうすべきだ、こうしないといけない、そんなことして何になる、それは無駄遣いだ、、、なんてことを言っていることが多いのかもしれない。
貧しい人に施した方がいい、なんて自分が施したこともないくせに偉そうなことを言うことが多い。人のことをとやかく言うよりも自分がした方がいいように思う。
出来る限りのことをしていないから出来る限りのことをしている人のことが分からないのかもしれない。出来る限りのことをしていないから、周りの人のことが気になって仕方ないというかもしれない。
そして女の人の思い、絶望、そんなものをまるで見ないで、ただ無駄遣いだ、もったいない、その金があれば、なんてことばかり言っているのではないか。
出来る限りのよいことをすることをイエスは受け止めてくれる。全てを投げ出して、倒れ込んでいく者を受け止めてくれる。人のことをとやかく言うのではなく、その人といっしょにイエスに倒れ込んでいきたい。どうにもならない自分を持て余している、それが私たちの実体かもしれない。私たちもイエスに倒れ込んでいき包み込んでもらおう。