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礼拝メッセージより
説教題:「あなたの信仰」 2001年6月10日 聖書:マルコによる福音書 10章46-52節
もし宝くじで1億円当たったら何を買うだろうか、という話をしたことがあった。我が家ではしばし考えた後、パソコン買って、美味しいもの腹一杯食べて、ぐらいで終わってしまった。9900万円以上余ってるのにそれ以上思い浮かばなかった。
自分にとって何が本当に必要なのか、こうしてほしいという願いはなんなのか、よく考えるとあまりよく分からない。こうしてほしい、という切なる願いを誰かにぶつけることもない、だからそれを神に祈ることもなくなってしまっている。
今日の聖書の箇所に、神に願いをぶつけて人の話が出てくる。
エリコ−エルサレムの東北東27キロ位。もうすぐエルサレムというところ。11章ではエルサレムに入っていく。そしてそこで十字架につけられる。十字架を目前にした時での出来事。
盲人 バルテマイ テマイの子だと書いてあるように、バルとは子のこと。
このバルテマイはイエスと聞いて叫びだした。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。ダビデの子というのはつまりキリストのこと。つまりイエスをキリストだと思っている、救い主だと告白している、ということになる。彼はイエスの噂をかねがね聞いていた。彼はこの機会を逃したらもうイエスにあえないと思った。今日しかない、今しかない、イエスにあうには今この時しかない、と思ったに違いない。そこで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。何度も叫び続けたのだろう。
群衆はバルテマイを黙らせようとした。ダビデの子、という言い方には救い主という意味もあるが、同時に政治的な意味合いもにじんでいる。今の権力者を倒す新しい支配者というようなイメージがあったらしい。そうすると時の権力者にとっては危険分子ということになる。そういう意味合いのあるダビデの子、という言葉を何回も叫び続けることで、周りの者たちはイエスに面倒なことが起こっては困るということで黙らせようとした、ということかもしれない。しかしバルテマイは何度も叫び続けたようだ。
しかしイエスは彼の声を耳にして、彼を呼んだ。イエスが自分のことを呼んでいると知ったバルテマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た、と書いている。夜になればその上着を着て寝て、昼間は施し物をもらうために上着を地面に広げるような人がいたそうだ。病気のもの、障害を持つものが罪人と考えられていた当時、彼は人間としては認められていない存在だったようだ。少なくとも一人前とは認められていなかった。憐れみを受けることでしか生きていけない存在だったのだろうか。その彼にとって、上着はほとんど唯一の持ち物だったかもしれない。その上着を脱ぎ捨て躍り上がってイエスのところにきた。彼の喜びはそれほどに大きかった。人生で最も大きな喜びだったのかもしれない。
彼を呼び寄せたイエスは「何をしてほしいのか」と問う。
バルテマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と答える。
イエスに対する丁度同じ質問が少し前のところにある。36節。ヤコブとヨハネに対して。この時には、「栄光をお受けになるときには、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」というものだった。その時には、イエスから偉くなりたい者は仕える者になりなさい、といさめられている。
バルテマイは目が見えるようになることをイエスに求めている。盲人に向かって何をしてほしいのかと聞くならば、当然見えるようになることだと答える、ような気もするが果たしてそうなのだろうか。
イエスはそのあと、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言った。バルテマイはイエスに向かって何度も何度も叫び続けた、「憐れんでくれ、憐れんでくれ」と叫び続けた。自分は憐れみを受けなければいけない人間なんだ、憐れみが必要な人間なんだと自分で認めている言葉だ。そんな惨めな人間だということを自分で認めている、自分ではどうしようもない人間なんだということを自分で認めている、だから「憐れんでください」という言葉になったのだろう。人間にはプライドがあって、自分で自分のことをだめだとか、惨めだとか、口では言いながら実は心の底ではあまりそう思ってもないことが多い、と自分のことで考えるとそう思う。本当にそう思っている人はあまり自分が駄目だということはあまりないように思う。口で言う人ほど自分のプライドを意識している人なのかもしれない。「わたしはだめだから」という人ほど「わたしはだめではない、だめではいけない」と思っているらしい。「あなたはだめではない」とか「あなたはすばらしい」とか言ってもらいたいために、「わたしはだめなのよ」と言うこともあるそうだ。それはそうとしてその自分のプライドを脱ぎ捨てるということが人にはなかなか出来ない。そして自分に必要な物がなんなのかということをいうことを口に出せないことが案外多い。自分の弱さを隠そうとかごまかそうとかする。自分でも気づかない振りをしたり強がったりする。だから自分にとって一番必要な物がなんなのかということを言うことも出来ないことが多い。
寂しくて寂しくて、一緒にいてくれる人が欲しくて仕方ないのに、人前では強がって自分一人で大丈夫だといった振りをしたりすることがある。面子があって、強がってしまったり。
しかしバルテマイは自分にとって必要な物が何であるか、自分に何が足りないのか、何が欠けているのか、そのことをよく分かっていたし、それを口にすることも出来た。彼を人間らしく生きさせない最大の問題は目が見えないということだった。心の真ん中にある願いを、バルテマイはイエスにぶつけた。「目が見えるようになりたいです」ということは意外と言えない言葉だったのではないかと思う。
心の奥底の願いをバルテマイはイエスにぶつけた。さて、わたしたちはそんな思いを神にぶつけているだろうか。
神に向かって、イエスに向かってどこまで心を開いているだろうか。神に何を願っているか。偉くなりたいとか、金持ちになりたいとか、家内安全であるようにとか、病気を治して欲しいとか、いろいろある。では一体その願いが自分にとってどれほど重要なことなんだろうか。もちろんどれも大事なことには違いないが、自分の人生にとってなくてはならない重大なことを神に願っているだろうか。
つまりたとえば通りすがりのおじさんには大事なことはお願いには行かない、本当に大事なことならばそれなりの人にお願いに行く。子どもが道に迷って泣くときには自分の親が来てくれることを待っている。つまり神に何を願うかということは、自分にとって神がどれほどの物なのかということにかかってくるということだ。自分の人生にとって神がどれほどのものなのか。自分にとって神がどこにいるのか、真ん中にいるのか、それとも飾りなのか。
自分の人生があって、中心に自分がいて、人生にとってはいろいろ大事なものがある。大事なものがいろいろある中のひとつに神があるのか、その人生をうまくやっていくための手段のひとつとして神があるのか。あってもなくてもいいけど、どっちかというとあったほうがいいから神があるのか、極端に言えばアクセサリーのひとつのようなものなのか。
それとも神は自分の人生のど真ん中、基盤にいるのか、つまり神の上に自分の人生が立てられているといったようなものなのか。神がいるから自分がいるといったものなのか。神なしには自分はないのか、それともなくてもいいがあった方がいいものなのか。
盲人が見えるようになりたいと願う、そのことをイエスは信仰と言われている。彼にとってはもうすでにイエスが、神が自分の中心にいる、自分の基礎になっている、もう彼は神の上に生きている、だからこれを信仰と言うにふさわしいのではないか。だからイエスはこれを信仰と言ったのではないか。彼がイエスに対してキリストだと言ったからとか、何度も叫び続けたからとか飛び上がってやってきたとか言うことよりも、自分のど真ん中に神が必要であること、そのことを認めたこと、それをイエスは信仰だ、あなたの信仰だと言ったのではないか。神との関係を持たねばならない、神に憐れまれなければ人として生きていけない、そんな思いをイエスは信仰と言ったのではないか。つまりバルテマイが何が優れた者になったからではなく、優れた思いを持ったからでもなく、神が必要な、神の憐れみが必要だと認めた、それこそをイエスは信仰だと言ったのだろう。
バルテマイはすぐに見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。十字架へ向かうイエスに従った。バルテマイの人生に変化が起こった。生き方に変革が起こる。イエスとの出会いはそんな出会いでもあるのだ。そしてそれはバルテマイにとって最も必要な出会いだったということだろう。
イエスと出会うことは、そのことで私たちが裕福になりなんでも思い通りになるような、そんな出会いではないかもしれない。私たちが偉くなり力強くなるような出会いではないかもしれない。イエスと出会っても私たちはきっと弱いままだろう。しかし弱いままだが私たちのありのままを見つめてくれる、心の奥の叫びを聞いてくれる、そんな安心と喜びを得るという出会いだろう。
私を憐れんでくれ、私を助けてくれ、私たちもイエスに叫び続けたい。