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礼拝メッセージより
説教題:「助けてください」 2001年6月3日 聖書:マルコによる福音書 9章14-29節
一時期、多くの若い人たちが新しい宗教に入っていると話題になった。その時、ある人が、新しい宗教は若者の質問に答えてきた、でも既存の宗教は答えてはこなかった、というようなことを言った。答えを持っていない、と言ったのかな。そうなのか、と考えるとつらくなってしまう。
新しい宗教に入るような人たちが求めているものに、キリスト教は答えることができないのか、答えはないのか、どうなんだろう。そんなことを考えている。今日の弟子たちと律法学者との議論はそんな議論だったのかもしれない。
一同─イエスと3人の弟子が山から下りてくると、他の弟子たちが律法学者と議論。律法学者が優勢。
弟子たちは無力だった。それは師匠の無力を意味する、と言って弟子たちをやっつけた。そこにイエス登場。15節で群衆は驚いたと書いている。何を驚いたのか。
イエスの質問に群衆の中のある者が答えた。16-18「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」。これはてんかんの症状に似ているそうだ。当時はこういうことは悪霊のしわざと考えられていた。
父親は弟子たちに霊を追い出してくれるように願ったが出来なかった。弟子たちに期待したのに裏切られた。その失望と批判、怒り。
イエスは弟子たちを「宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせた」。それなのに、彼らはその役を果たせなかった。
弟子たちは自分の力の限界を感じているのだろう。あるいは自信をもって悪霊を追い出そうとしたのに、それができず戸惑い、混乱していたのかもしれない。しかし彼らはそこで議論していたというのだ。何を議論していたのだろう。弁護していたのだろうか。
19節「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」。
イエスは不信仰を嘆く、が嘆きつつ、その世の中に乗り込んで来る。世の不信仰を嘆く、しかし弟子たちを責めることはない。そしてイエスと霊との対決が始まる。20節「人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。」
霊は、子供を支配しようとする。人間らしくなくそうとする。
差別、自己嫌悪、被害妄想、抑圧、人間をその人らしくなさせるもの、人間を生き生きと生きさせないもの、人を苦しめ縛り付けるもの、イエスはそんなものに対して、愛の力を持って立ち向かわれるのである。
イエスは父親に子どもの病歴を尋ねる。父親は不幸な苦しい過去を告白する。そして「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と悲しい過去を話す。
子どもを治すためにあらゆる手段を講じてきたのであろう。しかし、ことごとく裏切られてきたのだろう。
そんな時人はどんな気持ちになるのだろう。期待すればするほど、そうならなかった時の落胆は大きくなる。だから初めからあまり期待しないようになっていったのではないか。「できるならば」と思うことで裏切られたときの落胆をなるべく小さくしようとしたのではないか。
しかしイエスはこの言葉にこだわった。23節「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」何故?、不信仰を戒めるようなことを言うのか。
不信仰を駄目だと言われたら私たちは立つ瀬がない。不信仰の極みでありながら教会に集っているのが現状だ。不信仰というのは勿論心の中の問題のことで、礼拝の出席率とか献金の額とか、奉仕の数とかいう意味ではない。神を信じきれない、完全に神に任すことのできない面をどこかに持っているのが私たちの実態だろう。そのことをイエスは戒めているのだろうか。そう言われても困ってしまう。
父親はイエスの迫力に押されて答えているかのようだ。
「信じます、不信仰な私をお助けください。」これは変な言葉、矛盾していることば?。信じます、ということは不信仰ではない。
イエスにかけたい自分と、完全には信じられない自分とが入り交じっている。そんな父親にイエスは問いかける、できればというのかと。信じないのか、と言って一歩を踏み出せない父親に迫っているかのようだ。その迫力に思わず父親は、信じます、と答えたのかもしれない。
信仰とはそんなイエスの迫りに答えるようなものかもしれないと思う。私たちは自分でこんなに信じてます、などというようなことが言えた柄ではないだろう。誰もが、どうなんだろうか、信じているんだろうか、というような思いがあるだろう。しかしイエスは、私たちに、出来ればと言うのか、信じるのか、と迫ってきているように思う。信じるかと問われて思わず信じます、と答えるようなそんな仕方でイエスは私たちを信仰に招いているようだ。信じ切れない私たちを、そういう風にして自分のもとに導いてくれているようだ。信仰は自分がイエスについていくかのようでありながら、実はイエスに引っ張られていっているようなものなのだろう。
しかし、これも信仰。これこそが信仰の実態ではないか。まるで疑わずに信じるなんてことはできるのか。できればうらやましい。
29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
祈りとは主の力への信頼。主に信頼することが弟子たちにとって揺れていた。主への信頼は一度手に入れればそれで済むというものではない。免許のように、一度手に入れれば死ぬまで有効、とはいかない。いつも神に繋がっていなければそれはすぐに消えてしまうものなのだ。まるでコンセントの抜けた扇風機みたい。しばらくは惰性で回っていてもすぐに止まる。祈りによって私たちは神につながっていることができる。
こんな言葉を読んだことがある。「自分自身の不信仰を知ることによってのみ、人間は信仰が神の贈り物であることを、喜びと慰めをもって告白することができる。なぜなら彼が神の行為によりたのむ時のみ、彼は確かだからである。」
神の行為により頼む時こそ、私たちは確かだと言う。私たちは自分自身が、何があっても揺るがない固い信念、信仰を持ちたいという願いを持つ。しかし自分がどれほどのものを持つかは問題ではない。何を持っているかよりも、神につながっているかどうかが問題だ。私たちがなにかあるとすぐに揺れるような弱い者であっても、神につながっているならば、確かな神につながっているならば、私たちは確かなのだ。この神の行為により頼む、ということが祈りなのだ。自分の無力を、自分の不信仰を知り神の力に頼る、神様助けてください、これこそが祈りだ。
私たちも大変な問題に直面している。そして自分の無力さを知らされている。イエスは私たちにも「できれば、と言うか、信じる者には何でもできる」と呼びかけておられる、私たちをも招いておられるのではないか。