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礼拝メッセージより
説教題:「偏見」 2001年5月27日 聖書:マルコによる福音書 7章14-30節
ある著名な牧師のいた教会に猫が迷い込んだ。その牧師は猫を飼い始めた。がしかしこの猫は礼拝の最中に教会に入ってきてみんなの邪魔になってしまった。仕方無く、牧師は教会の入口の柱に猫を縛って礼拝を始めるようになり、その猫を柱に縛りつけることが礼拝のはじまりとなった。だいぶ時間がたって、その牧師は死んだが、やはり猫は毎週柱に繋がれていた。やがてその猫も死んでしまった。しかし、その教会では、日曜日ごとにどこからか猫を捕まえてきて、柱に縛りつけてからでないと礼拝が始まらなくなった。
けっこうありそうな話し。そのことが本当に大事なことならそれでいいが、結構どうでもいいことまで、これはこうすべきです、なんて言われてしまうと困ってしまう。
パリサイ人と律法学者がエルサレムから来た。彼らが、イエスの弟子たちが手を洗わないでパンを食べている、ということ。を問題にした。「洗わない手でパンを食べている」ことを問題にした。もちろん衛生的でないことを問題にしたのではない。言い伝え違反を、そして律法違反を問題にした。律法違反となると、命にも関わることにさえなる。
そもそも神と人間をつなぐための律法だったはず。人間が人間らしく生きるための律法だったはずなのに、その律法から出てきた、拡大解釈した言い伝えよって人を裁いてしまう。神と人をつなぐための律法が、いつしか人を裁くための道具になってしまっている。
また自分が守れない、あるいは守りたくない掟には、言い伝えと称して逃げ道を作っていたらしい。
イエスは「手を洗うこと」を否定したのではない。食事の前に手を洗ってはいけない、と言ったわけではない。そうではなく、手を洗うという人間の取決めによって人間そのものを否定したり、切り捨てたりするあり方を拒否された。「手を洗うこと」で自分が清くなったと思い込み、そのことで自分を守り、他者を批判しようとする偽善を非難された。
神の戒めがどれほど無意味なものにされたか。「父と母を敬え」十戒の中の戒め。しかしこれをコルバンと言えば、つまりこれは供え物ですと言えばそれで何もしなくてもいい、ということにしてしまった。コルバンという言葉が切り札となっていった。この言葉によって何でも許され、誰もが何も言えなくなってしまった。
言い伝え、によって戒めを否定してしまった。神の戒めよりも、人間の言い伝えの方が大事になってしまった。そしてこのコルバンという言葉によってすべてが許されることになった。
今で言えば「信仰的に、福音的に、聖書的に、神学的に、霊的に、恵み、感謝、導き」といった単語を言葉の端々に言っておけば、実態は違っていても立派な信仰者となったような気になって、回りからもそう見られたりすることがある。
信仰を持って生きるということは、私たちがなにか立派に生きることでも、人から褒められるような人間になることでもない。見えないところにいます神に出会い、神の前に立ち、神に向かって生きること。礼拝に来るにも献金するのもそれは神に向かってするのであって、人に見せるためでもないし、人に認められるためでもない。
私たちはどれほどイエスに従ったか。どれほどイエスを見たか。どれほどイエスに聞いたか。そしてどれほど真実の言葉を聞いているか、真実の言葉を語っているか。
本当に大事なことを大事にしていきたい。『自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。』という言葉がある。キリストは私たちを縛りつけるために教会に導いているのではない。自由にするためにだ。他の何物でもなく、常識にでもなく、キリストにだけ縛られていたい。
イエスはその後異邦の地へ行く。誰にも知られないように。
何で? ファリサイ派と律法学者と汚れについての議論をしたあとだったので、いつも変わらぬユダヤ人らのたかぶりと形式主義を思い知らされ、嫌気がさしたからかも。
ティスル。フェニキアの港湾都市。地中海岸の北の方。
ユダヤ人から見れば汚れた所。聖なる土地ではないところ。そこにわざわざ出ていかれた。異邦の地へわざわざ行った。そしてそこに住む人々は異邦人。ユダヤ人にとって異邦人とは、ただ単に外国人というだけではなかった。そうではなく、自分たち清い人間とは違う汚れた人間。ユダヤ人は異邦人のことを「犬ども」と言って軽蔑した。今の日本人の犬に対する感覚とは随分違う。今の日本で言えば何かな、ゴキブリかな、うじむしかな。それだからユダヤ人は異邦人と接触することさえも嫌った。異邦人の住む異邦の地へわざわざ行く人はいなかった。しかしイエスはそこへ行かれた。
イエスはティルスで、誰にも知れないように家の中に居た。しかし人々に気づかれてしまった。イエスの評判はすでに知れ渡っていた。
そうしてイエスのもとに汚れた霊につかれた娘を持つ女がやってきた。この女はすぐに聞きつけてきたと書いてある。
そして娘から悪霊を追い出してください、と頼んだ。ところがイエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない」なんてことをいう。冷たい返事、意地悪いやつ。「なんだ、あんたそんなこと言うの」と怒って帰るか?
でもこの女の人は帰らない。なんとしても、ここで引き下がってなるものか、という感じ。これに対してこの女の人もなかなかユーモアのある返事をする。「主よ、しかし食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」自分のことを子犬だと言われただけで、馬鹿にしていると怒っても仕方ないようなことなのに。普通こんな洒落たことはなかなか言えない。「そこを何とか」「そんなこと言わずに」「私たちの言うことは聞いてもらえないんですか」しくしく、てなとこかな。
とにかく女の人の一途な願いはすごい。パンのかけらでもいいから欲しい。ほんのおこぼれでもいいから下さい、という姿勢。
イエスは「それほど言うなら、よろしい」。「その言葉で十分である」。原文「その言葉の故に行きなさい」。イエスは女の人の願いを叶える。ひたむきな態度に感動したから?信仰を確認したから?
娘は癒される。イエスは異邦の地でも働かれる。ユダヤ人の心の中の頑さを超えてイエスは働かれる。異邦の地で異邦人に神は力を表すことになった。だいたい神にとって異邦も何もないのだろうが。
ユダヤ人は人間は垣根を作りたがるようだ。そして中はきよくて外は汚れていると考えていたようだ。そして外の汚れから自分を一所懸命に守っていたらしい。だから汚れた手で食事をし、汚れた異邦人と接触することは自分も汚れると考えていたらしい。そして汚れることは神から見捨てられること、人間失格になるように思っていたようだ。
ところがイエスは言う、外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。汚れの根本は人の中にある、というのだ。罪の根本は人の中にあるということだろう。こんな犯罪を犯さなかったから私は罪を犯してはいないとか、この決まりを守ったから罪人ではない、なんてことではないということだ。キリストを信じて、礼拝には休まず、献金も欠かさずしているから自分はきよい人間、なんてことはないのだ。
イエスが出会い、救われている者はみんな苦悩するもの、重荷を背負ってにっちもさっちもいかないような者ばかりだ。追い詰められて、どっちにいくこともできないようなものばかりだ。なりふり構っていられないようなものばかり。今日の女の人のように、なんとかしてほしい、頼むから、ほんの少しでもいいからあなたの力を分けてくれ、そんなことしか言えないようなものばかりだ。そういう人たちのところでイエスは奇蹟を行っているのではないか。
女は自分のことを子犬だ、と言った。わずかのパン屑でいいから欲しい、といった。大きなパンをもらえるようなものではない、と言った。
そこが大事?。信仰深いから癒されたのでない。大きな信仰心がありからパンをもらえるのではない。神の恵みがあったから。神がくれたから。神が与えてくれたから。
ある牧師がこんなことを言っている。「まわりの人に迷惑をかけ、また傷つけるのは所謂信仰の薄い人ではなく、えてして信仰の深い人だ。」そしてそういう人の迷惑はなかなか反論しにくい。信仰があれば、いっぱい祈ればどうにかなる、私はこんなに一所懸命にしてきた、なんて言われても落ち込むだけだ。
でも私たちが今あるのは、私たちのが深い信仰を持っているからではない。その代償として神が恵みをくれたのではない。その代償として救ってくれたのではない。イエスの十字架の死があったから救ってくれたのだ。ただ神が憐れんでくれたからなのだ。
クリスチャンがきよいとかクリスチャンが立派だなんてのは全くの偏見だ。立派な人がクリスチャンだったと聞くとなんだか嬉しいような気になるが、それこそが案外教会の外の人を裁いているということなのかもしれないと思う。
ある人がこんなことを言っている、
「繰り返される宗教的な決まり文句は化石となった言葉である。口先だけで自動的に出てくる言葉は化石化した言葉にすぎない。もし今日の教会の力が弱いとするならば、それは教会が生きた神の言葉ではなく、化石化した人間の言葉を語っているからではないだろうか。生きた言葉は必ず生きた応答を呼び起こすのである。」
私たちこそ生きた神の言葉を聞いていかねばならないのだろう。
教会はただ神に憐れまれている者の集まり。自分の信仰心をいばることのできる人は一人もいない。信仰心なんていばるものでもない。
私たちは、パン屑をもらうのがふさわしい。だから主よ、パン屑を下さい、と言おう。パン屑にも私たちを生かす力がある。