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礼拝メッセージより
説教題:「もう一人と」 2001年5月13日 聖書:マルコによる福音書 5章21-43節
ヤイロ
会堂長。ユダヤ教の会堂の管理人。ユダヤ人にとっては心の拠り所。ユダヤ人社会の中心。その会堂の管理人。会堂の運営や儀式の設定についての責任者でもあった。キリスト教で言えば教会の牧師のようなものか。今の日本の牧師は大した権威はないが、当時のユダヤ教は単なる宗教団体ではなく社会そのものでもあった。生活と宗教とが密着している中で、その拠り所である会堂の管理人は人々から尊敬され、社会的信用の深い人物であり、社会的な影響も与えていたのであろう。あそこの会堂長があんな説教をした、なんてことから社会が動くようなこともあったに違いない。今の日本の牧師が礼拝で何を言っても社会的な影響力がほとんどないのとは訳が違うのだ。
このヤイロがイエスをどうみていたのか。もちろん噂は聞いていたのだろう。ユダヤ教にとって、イエスは自分を神の子だといい、律法を公然と破る異端者であり、敵対者であった。宗教的な反逆児というだけではなく、社会を乱す者でもあった。できるだけ関わりたくない、問題を起こしてもらいたくない、困る、少なくとも自分の土地では何もしてくれるなと思う、そんな人物であり、また場合によっては攻撃しなければならない対象でもあったはずだ。実際ユダヤ教の指導者たちはイエスの命さえもねらっていたのだから。
しかし、娘が重い病気になり死の恐れが彼の家をおそった時、彼の心にうかんだのは、イエスへの思いであった。イエスのところへ行こうと思うまでにはいろんなことがあったに違いない。いろんなところへ行って娘を助けようとしたことだろう。障害をもった子の母親があらゆるところに行ったそうだ。子どもを治してくれそうなところ、自分を助けてくれそうな所。教会だけは行かなかった。最後の最後にやってきた。
多分あらゆることをやってもだめで、結局はイエスにすがるしかない、そんな思いになっていったのであろう。
それまでは、社会から取り残されたような者、つまり会堂から追い出されたものや会堂に入れてもらえないような者に対して、イエスが配慮し、様々な問題を解決しているうわさを聞いて、ヤイロは立場上苦々しく思い、批判的に見つめていたに違いない。
しかし、今自分の上に大きな悩みが振りかかってきたとき、どんなに努力しても、誰の力をかりても娘の命を助けられないと分かった時、自分の無力さを知ったとき、ヤイロの思いはイエスへと向いていった。それは同時に自分の社会的立場も名誉も、世間体も投げ捨てることと引き換えでもあった。
無力
死にかかっている娘を前にして、ただ見守ることしかできない、自分の無力さを感じたであろう、絶望のなかで、しかし、ヤイロはここで初めてイエスと真正面に向かいあった。
23 「私の・・・・」。娘の事だけを思い、取り乱している父親の姿がそこにある。早くしないと死んでしまう、といういらだちとおそれがある。しかし、イエスに全てをかける信仰がそこにはある。自分にはどうすることもできない、どうか助けてくれという思いがある。これこそが信仰なのではないか。彼の言葉にはもうあなたしかいないというような切羽詰まったものが感じられる。
もう一人
イエスはヤイロと共に出掛けられた。一分、一秒でも早くといらだっていたであろうヤイロの気持ちとは裏腹にイエスの歩みを群衆は鈍らせてしまう。大勢の群衆が押し迫りイエスの歩みははかどらない。そしてとうとう12年間も出血の止まらない女との出会いによってイエスの足は完全に止まってしまう。
12年間出血の止まらない女。慢性の子宮出血だろうか。律法では汚れた者。彼女にふれた者も汚れる。だから宗教行事に参加できない。社会からも除外される。
病気の苦しみと疎外される苦しみの二つの苦しみの見舞われている女。
26節、どれほどひどい状態だったか、どれほど苦しんだか。当時病気は悪魔、悪霊の働きと考えられていた。そして治療とは呪文、まじないによる悪魔払いというようなものだったそうだ。考えられるあらゆることをしてもすべての手段が無効に終わった。
次から次へと医者にかかっても治らない。財産も減っていく。しかし苦しみは全然なくならない。それでも「今度こそは」という思いはますます強くなっていったのだろう。期待しては裏切られの12年間だったに違いない。期待するほど失望も大きい。ならば最初からあまり期待しないほうが、とも思ったかも。
彼女は後ろからイエスを追いかける。27「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。」後ろからイエスの服に触った。28『「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである』。目の前に立って「治して下さい」と言うこともできなかった。後からこっそりと服を触っただけだ。彼女にはそれしかできなかったということだろう。
その瞬間病気は癒された。イエスは自分から力が出ていったことを直感した。イエスはそれで終わらせなかった。彼女をうしろにたたせたままにはしなかった。
出会い
彼女はおそれおののいて進み出てくる。彼女はいやしだけを求めていた。そしてイエスからだれが触ったかと聞かれて恐れおののいた。そして震えながら進み出てひれ伏した。彼女はいやされればそれでよいと思っていたに違いない。それ以上のことは何も考えてはいなかったのだろう。イエスと話すこと、イエスと出会うことなど全然考えていなかったに違いない。
しかしイエスは出会いを第一に求めているようだ。癒すことよりも出会うことの方を大事にしているように見れる。彼女はすべてをありのままに話したという。自分の身に起こったことを全部話したというのだ。どれくらいの時間話していたのだろうか。イエスはそれをじっと聞いていたようだ。イエスはそれまでの彼女の痛み、苦しみ、悲しみを聞いたことだろう。
そして彼女に話しかける。34「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」あなたの信仰があなたを救った、とイエスは言う。彼女はこれを聞いてどれほど安心しただろうか。とても信仰と言えないような思いをイエスは信仰と言うのだ。そして安心して行きなさい、元気に暮らしなさいという。
そんなのは信仰ではない、服に触って治してもらおうなんて、それも後からこっそり触るなんて、そんなのは本当の信仰ではない、と立派な牧師が言いそうな、そんな信仰だ。しかしイエスはあなたの信仰があなたを救ったという。
この女との出会いはヤイロの家へ向かう途中に起こった。一刻を争っている最中に起こった出来事だった。女の病気を癒すことが大事なら、イエスは女と話をすることもなかっただろう。しかしこんな時でもあえて女との出会いを求めている。彼女の苦しみを聞くことを大事にしている。それは人の命にも関わる大事なことだからということだろう。
絶望
癒された女の人の長い話を聞く間、ヤイロの気持ちはどれほど苛立ったであろうか。そして追い打ちをかけるようにそこへ家からの遣いがやってきて娘の死を知らせる。
恐らくヤイロはいろんな反対を押し切ってイエスのもとへやってきたのではないだろうか。それは自分の仲間や、あるいは親戚、家族の反対もあったかもしれない。イエスのところへ来ることによってその後の社会的立場は完全に悪くなるということももちろん分かっていただろう。しかしそれも承知でやってきた。なのに、なのに娘は死んでしまった。地位や名誉や世間体をなげうってイエスにすがってきた、だがそれも無駄になってしまった。ヤイロには絶望しか残されていなかったに違いない。
そのヤイロに向かってイエスは語りかける。「恐れることはない。ただ信じなさい。」絶望しかない人間に向かってイエスは告げる。「恐れることはない、ただ信じなさい」
このヤイロに対して周りの者の思いはどんなだっただろうか。
会堂長の仲間たち、また会堂の仲間たちはヤイロがイエスのもとへ行くことを苦々しく思っていたのではないか。
娘の死を知らせに来た人々が「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と言った。これはいかにも謙遜しているような言葉だが、本心は、これでイエスを家に近づけなくてすんだ、という安堵の気持ちのこもった声かもしれない。
しかしイエスはそんな言葉を聞き流した。そしてただ「恐れるな、ただ信じなさい」とだけ言った。イエスにはまわりの者の騒音は聞こえず、面子を捨てて自分にすがってくるヤイロしか目に入らないようだ。
イエスはヤイロの家の者に向かって口を開く。39「なぜ泣き騒ぐのか。子どもは死んだのはない。眠っているのだ。」
人々はあざ笑った。
イエスは子どもの父母と3人の弟子だけを連れて子どものもとへ行かれ手をとって「タリタ・クム」と言われた。すると少女はすぐに起き上がって歩きだした。
イエスの呼びかけによって、イエスの声によって、イエスの言葉によって死は打ち破られた。少女はイエスのわざによって新たな生涯を歩みはじめた。
イエスの助けを求めるために全てを捨てたヤイロはよみがえりの証人となった。彼らは娘のよみがえりを見、非常に驚いた。救い主の力有るわざに接し、人の理解を遙かに越えたイエスの愛のわざを認識した時、不安は驚きに代わり、恐れは喜びに変わる。
ヤイロは女の話をいつ終わるかと待ち続け、結局女のせいで娘は死んでしまった、と思っていたであろう。あいつがいたために、という思いを持ち続けていたであろう。しかしそうではなかった。女も自分の娘もイエスは大切に思っていたのだ。ヤイロは「恐れることはない、ただ信じなさい」というイエスの言葉を聞いていた。しかしそのことがどれほど信じられていただろうか。この女よりも自分の娘をと思っていたのではないか。
私の方が苦しいのだから、というような思いを持つことが多い。だから私を第一にしてほしい、私こそいやして欲しい、相手をして欲しいと思うことが多い。神に対しても私こそ一番に見て欲しいと思う。ヤイロも自分の娘こそ一番に、と思っていただろう。しかしその中でイエスが出血の女を癒された。その時には邪魔者としか見えていなかった女をイエスは大事にされたことを後で思い出したことだろう。あっちかこっちかというような思いでいた中で、神は両者を大事にされていた。どっちをも心配していた。その神の大きさで自分も包まれていたことを知ったことだろう。いつも競い合っている自分をも神は大事にしてくれていることを知ったことだろう。競い合ってしまう思いに縛られている自分のことを知らされたのではないか。そして彼女も自分の娘も癒されたことの喜びを後で感じたのではないか。自分の娘がよみがえらされて喜んだ以上の喜びを、長血の女が癒されたことに思いをはせることで得られたのではないか。神の愛は自分だけが独り占めするようなものでもなく、誰かに取られるとなくなるようなものでもないことを知ることで一層の喜び、安心を得られたのではないか。