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礼拝メッセージより
説教題:「新しい人生」 2001年5月6日 聖書:マルコによる福音書 5章1-20節
ゲラサ
ゲラサ人の地 デカポリス(ガリラヤ湖の東南側)
異教の地。律法で不浄、汚らわしいとされている豚を飼っているような土地。
まっとうなユダヤ人にとって辺境の地。自分たちとは別世界の地での出来事。
汚れた霊につかれた人は墓場をすみかにしていた。日常の生活空間とはかけ離れた所に住んでいた。この男はかなり狂暴で、人々が鎖や足かせでもつないでいられない。そして夜も昼も何かを叫び続けている。石で自分の体を傷つけている。
全く異常な事態である。彼に何が起こったのだろうか。自分で自分をコントロールできないような大変なことが起こったということだろうか。自分で自分を傷つけるほどに彼は苦しんでいたに違いない。
しかしこの男は『イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ』。イエスを見てイエスにかかわりを持たないではいられなかった。しかし彼が言ったことは「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」、ということだった。彼はイエスに助けてくれ、と言ったのではなかった。それさえも言えない状態だった。そう言わせないのが汚れた霊のしわざなのか。イエスを神の子と認めつつも、今の自分に関わらないでくれと言う。今の自分が本来の自分でないとわかりつつも、今の自分に固執している。自分を変えてくれるな、今のままでいい、変わることは苦しみだ、苦しみたくない、そう思っているということか。
イエスは『「汚れた霊、この人から出ていけ』」と命じたとある。
レギオン
イエスは男に名前を聞くとレギオンだと答える。レギオンとはローマの軍団の名前。一つの軍団には4000人から6000人いたそうだ。
この男はけがれた霊につかれていたと書かれている。汚れた霊に取りつかれた、とはどういうことか。そういうものが存在するのか。良く分からない。会ったこともないし。テレビなどのマスコミはこういう話が好きだ。何でもかんでも霊のしわざにしてしまう。何でも霊のしわざにすると説明はつく、というか説明は簡単。しかし実際にイエスの名によって悪霊を追放したという話も良く聞く。しかしよくわからない。が、汚れた霊にとりつかれるというのは、半狂乱になって叫ぶということだけではないのかもしれない。なにものかに縛られている状態、なんとか主義、なんてのもそうなのではないか。学歴至上主義、効率第一主義、あるいは迷信とか、慣習とかに縛られていることも、汚れた霊のしわざかもしれない。となると、今の私たちもこの汚れた霊にとりつかれていない、とは簡単にはいえなくなってしまう。そしてこの男の有り様は今の私たちと重なるものがある。
失敗
この人はどうして墓場に住むようになったのだろうか。
ある本のなかに、景気のいいときに株で儲けていた人が株価の暴落で大損をして、仕方なく一家心中をはかったということが書いてあった。一人娘と妻と3人で死のうとしたが、実際に死んだのは子どもだけだった。この人は殺人の罪に問われて刑務所に入りなんとかやり直そうとしていたが、妻は世間の風当たりもつらく、しばらくして自殺してしまった。
もし自分がこんな立場になったとしたら、どうなるだろうか。とてもじゃないが冷静に物事を考えることもできないだろう、なにもかもぶちこわして暴れるしかないかもしれない。この墓場の男もあるいはそんな状態だったのかもしれない。どういうことから墓場にいることになったのかは書かれていない。彼も失敗したのかもしれない、人生に失敗したと言っていいのかもしれない。
冷静に物事を考えることもできず、人の忠告ももちろん聞くこともできず、ただ叫ぶしかない、自分自身を傷つけるしかない、そんな状態だったのかもしれないと思う。社会を責め、運命を呪い、しかしそれは具体的な相手がいるわけでもなく、結局はそれに飲み込まれてしまった自分自身を責める、そしてそれにも疲れて何もできなくなる。この汚れた霊につかれた男はこんな有り様だったのではないか。
事業には失敗しなくても、自分の小さな失敗を認められない、自分の弱さを認められないとしたらそれも同じこと。どこまでもプライドを持ったままで、そのプライドを満足させるために、まわりから称賛されるために自分の身を削るほどに働いているとしたら、あるいは弱さを絶対に出してはいけない、強くなければいけない、挫折も失敗もしてはいけない、休憩もしてはいけない、どこまでも走って走って一生懸命頑張って頑張っていないと気が済まないと思っているとしたら、いつも正しく立派に間違うことなく生きていなければならないと思っているなら、それも汚れた霊に憑かれた男と同じかもしれない。
自分の挫折を失敗を、弱さを認められないこと、それは人間にとって大きな罪ではないのか。それこそが汚れた霊のしわざなのかもしれない。
自分は挫折もする、失敗もする、人も傷つける、躓かせる、弱い弱い罪深い人間であることを認めること、そこで初めて神に向かって救いを求めていくことができる。この男が挫折を認めていたなら、急いで、すぐに救いを求めていたなら、自分を傷つけ、叫ぶことはなかったのではないか。
挫折したとしてもプライドを捨てられない、失敗した自分を赦せない、認められない、それはまさにけがれた霊にとりつかれた人間の姿ではないかと思う。
解放
しかしイエスはこのような男のために来てくださった。この男を支配する霊を追い出してしまう。イエスにはその力がある。この男はすぐに正気になった。劇的に変わった。しかし、自分の弱さを認められない、プライドを捨てられないことも汚れた霊のしわざだとすれば、汚れた霊を追放するということは劇的な時ばかりではないであろう。目には見えないような悪霊追放もあるだろう。この男は劇的に解放されたように、私たちは静かに解放される。全く違う仕方のように思うかもしれない、しかしどちらにしてもイエスの言葉によって解放されることには違いない。
プライドだけではない、多くの迷信からも解放される。世の中にはなんとかのたたりとかいうものがいっぱいある。ばかげた言い伝えだとおもいながら、でもなかなかやめられない。それによって不便になったり、苦しんだり、人を苦しめたりしていても止められないような言い伝えや、慣習がいっぱいある。イエスはそのようなものからも解放して下さる。
汚れた霊につかれていた男は、イエスによって解放される。彼はイエスについていきたいとさえ言いだす。しかし、これを見ていたはずのまわりの人はだれもイエスについていきたいとはいわない。そればかりか称賛もしない。だれもイエスに近づかない。イエスと関わりを持とうとする者はだれもいなかった。逆にここから出ていってほしいと願った。
人々はイエスのわざを見ても、そこに神の業を見ていない。神の国の到来をみていない。ただ自分たちの生活をおびやかす危険な存在としか見ていない。彼らにとってはこの男ひとりよりも2000匹の豚の方が大事だった。確かに経済的には豚の方が大事だろう。しかしそうしてイエスに背を向けた。彼らはイエスとの関わりを持とうとしなかった。彼らにはイエスの存在そのものが苦痛であった。イエスにたいして「出ていってくれ」という言葉は、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」という言葉と同じ響きがする。
変化
現状のままいることを求めるという傾向はどこにでもある。現状維持が最優先、それが最善かどうかを考えるのではない。変わることで良くなると分かっていても変えたくない、と思うこともある。まわりは変わっても自分だけは、自分の生活だけは変わってほしくないと思う。何とか今まで通り、変えたくない、変わってほしくない、その思いはこのまわりの人々と同じ思いかもしれない。
イエスは変革をもたらす。人の行き方に変革をもたらす方だ。実際に自分の目の前で一人の男が変えられた。しかしその変化が自分に及ばないことを人々は願った。
新しい人生
いやされた男はイエスについていくことを願った。しかしイエスは「自分の家に帰りなさい」と言って許さなかった。いきなり自分に従えと言ってみたりするのに、ついてきたいと言う者に対しては家に帰れ、と言う。
この男にとっては自分の家に帰るということは大変なことだっただろう。かつての自分のことを知っている。墓場にいたことを知っている。何もかも知っている人が大勢いる家族や、地域へ帰っていくということは大変なことだ。むしろ過去を全部捨ててしまって、イエスについていったほうが、よほど気が楽だったのではないか。
イエスはそんな男の気持ちも分かっていただろう。もちろん少しでもイエスのそばにいたいからという気持ちもあったであろう。その両方の気持ちを知った上で、しかしイエスはこの男に家に帰るように言う。
イエスはいろいろな方法で人を用いられる。時にはすべてを捨ててすぐについていくことによって、時にはそこに止まることによって。一人一人をそれぞれの方法で用いられる。
この男にとっては自分の家に留まることを命じられた。そしてそこでこの男の新しい人生が始まる。それは苦しい過去と向かい合わせの人生であっただろう。しかし全く新しい人生なのだ。苦しみを通りすぎてきた新しい人生だった。苦しみによって磨きがをかけられた人生だっただろう。
私たちには新しい人生がはじまる。神が私たちに新しい人生を与えられる。何物にもしばられない、過去にもしばられない、全てのことから解放された、新しい人生が始まる。何よりもまずイエスに聞いていく、まず神に聞いていく人生がはじまる。見かけ上は何も変わっていないかもしれない。でも、イエスに従う人生は全く新しい人生なのだ。イエスによって汚れた霊を追い出してもらった、何物にも縛られない新しい人生なのだ。
教会でもいろんな声を聞く。クリスチャンになったのだからこうしなければいけない、礼拝は休んではいけない、献金をしなければいけない、伝道しなければいけない。あるいは役員は仕事をしなければいけない、などいろいろな声を聞く。そしてそれにしばられてしまっているように思う。しなければいけないからするというのはとてもしんどいことだ。教会がしんどいのはしなければいけないことを無理にしているからではないかと思う。自分がやらなければ教会が倒れると思って、自分で教会を背負って立っているとしたら疲れるだろう。そこでは周りの者たちのことが気になってくる。私はこんなにしているのに、あの人は何もしない、ということになる。でも礼拝が喜びならば、礼拝が自分にとって大事なことならば、礼拝に来ない人のことを責めることはない。教会のいろんな奉仕もそれが喜びならばしない人のことを責めることもない。
やらなければいけないことが出来ていないのではないか、どこがまだ足りないだろうかという気持ちでいるのはしんどいことだ。そして今の教会はそんな気持ちが随分あるのではないか。けれども出来ることをやっていこう、何ができるだろうかと考えることはとても楽しいうきうきすることだ。
しなければいけない、という思い、自分は駄目なのだという思い、もう救いようがないのだという思い、そんな思いにどこかで私たちも縛り付けられているように思う。私たちこそ、そんな思いからイエスに解放してもらおう。イエスは私たちを縛り付けるいろんなものから解放するために来て下さったのだ。私たちを縛り付けるあらゆるものから、そして罪からも解放してくださったのだ。だからこのイエスに聞いていきたいと思う。まず何よりもイエスに聞いていきたいと思う。