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礼拝メッセージより
説教題:「何のため」 2001年4月29日 聖書:マルコによる福音書 3章1-6節
変?
ぼくはもともと左利きだったらしい。祖母は左で包丁をもっていた。でも無理やり右に持つようにさせられたらしい。多分そのせいでひねくれていると思っているのだが。本当のひねくれの原因は定かではない。ぼくは教会に行きはじめたころ、左手で箸を持つ練習をしていた。これがかなりうまくいっていた。ところがどこに行っても右で食べろ、おかしい、なんで左なんかで食べるのか、と言われた。右手で食べていたときに、どうして右手で食べるのか、なんて訊かれたことはなかった。それでも左で食べていた。ところが教会だけはそんなことは言わなかった。浅海君左利きなの? というだけ。本当に教会だけだった。教会でも同じことを言われていたら今頃教会には行っていないのではないかと思う。
教会にはいろいろな人が来る。右利きの人も、左利きの人も、日本人も、外国人も。変な格好をした人も来る。びっくりするような格好の人もくる。自分と違う人を目の前にしたときに私たちはどうするのだろうか。
安息日
聖書に安息日の出来事が出てくる。2章23節からのところも安息日の出来事だ。そこで事件が起こった。
さて安息日とは創世記2章にあるように、神が天地を作ったときに7日目に休んだということに由来する。そしてモーセの十戒には、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日のあいだ働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」と出エジプト記20章に書いてある。
また出エジプト記の34:21にも、「あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。耕作のときにも、収穫のときにも、仕事をやめねばならない」と書いてある。さらに35:2には「六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる」とまで書いている。
こういう風に、安息日には休まにゃならんという決まりがあった。そういう律法があった。安息日には労働をしてはいけなかった。で問題は何が労働なのかということ。そこで律法の学者はこの安息日の律法を具体的に日常生活にあてはめるために39の規則を作り、さらにそのひとつひとつを6つの細則に分けていたそうです。ということは全部で234の細則でしょうか。
中には、ハンカチを持って歩くのが労働になり、腕にまくのが労働ではない、というようなことを真面目に議論していたらしい。ちなみに今では、エレベーターのボタンを押すのは労働に入っているそうで、安息日にはエレベーターは自動運転で全部の階に順番に止まっていくそうだ。
安息?
そんなことまで労働になるということで、安息日に種まきや耕作、取り入れをするなんてことは当然絶対駄目、そして病気の治療もだめだったようだ。
そこで人々はイエスが安息日に病気をいやされるかどうかを固唾を飲んで見守っていたらしい。安息日の律法に違反するかどうかを見守っていた。
イエスも弟子たちも、安息日の律法を破る常習犯であった。しかしイエスは律法なんてものはまるで駄目な無用なものだと考えていたわけではなかった。しかし、イエスの律法理解とファリサイ派の律法理解とは随分と違いがあったようだ。
ファリサイ派にとって、安息日はどんな日だったのだろうか。彼らにとっては決して喜ばしい日ではなかったようだ。ただ何もしない、と言うよりも何もしてはいけない日だった。これはいいか、あれはいいか、許されるか、何が律法違反ではないのか、そんなことを一生懸命に考えて、いつもびくびくしている、そんなかなりしんどい一日だったらしい。
ファリサイ派は自分たちがそうやって異常なほどに神経質になっているだけではなく、同じことを回りの者にも押しつけていた。俺たちはこれほどやっているんだ、という誇りと、お前たちは何をやっているんだ、ちゃんとせんか、やっぱりお前たちは駄目だ、何も知らないという人を裁く気持ちの両方を持つようになる。それは当然の成り行きだろう。
彼らだってただ意地悪で律法律法と言っていた訳ではなかっただろう。自分たちの良心に従って、ユダヤ教という宗教を守っていただろうと思う。そうすることが、律法を必死に守ることが神に対する忠誠の現れであると考えていただろう。実際、その忠誠心は大したもの、その熱心さはちょっとやそっとじゃ真似できないようなものだった。そしてその忠誠心がユダヤ教を支えてもいた。
彼らは律法を守り、ユダヤ教を守っていた。律法を守る集団はずっと生き延びていた。それを必死に守っていた。律法を守ることが何よりも大事なもの、律法を破らないことがすべてに優先することだったようだ。しかし、そのことで彼らは人間のいのちに無関心になっても平気であった。人間のいのちよりも律法を重んじたようだ。だからイエスは彼らに問いかける、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」しかしそれに答える者はいなかった。
善を行うこと、命を救うことが大事であり、律法でも許されているはずだという気持ちはきっと誰もが持っていたであろう。しかし当然大事だと思うことを大事に出来ない人たちがそこにいたようだ。昔からしてはいけないと言われていたからあだろうか、ファリサイ派がうるさいからだろうか。そこでは結局は本当に大事なものを大事にできないことになってしまっている。イエスはそんな人たちを怒りと悲しみの目で見つめている。
ファリサイ派たちは、そうやって必死で律法を守ることで自分たちの宗教集団は守ることが出来ていた。しかしそこでは人間は見失われ、違反者は排除されていく。彼らに人間の姿は見えていない。彼らのとって、人間には2種類しかいないようだ。律法を守る人間と律法を守らない人間。あんたは合格、あんたは不合格といった感覚で人間を見ていたのではないか。そして合格したものには、あなたはすばらしい、あなたこそユダヤ人だ、私たちの仲間だ、とか言い、一方不合格のものは有無を言わせずはじき出し除け者にする。
教会も?
しかしこのファリサイ派の姿こそ、今のわたしの姿そのもの、私たちの姿そのもの、この教会の姿そのものかもしれない。
教会はこうすべきです、とか、教会員はこうすべきです、なんて言う人に限って、これは駄目、あれは駄目、なんてことを言いだす。そして小さなことまで、理想をあてはめようとして、ここはだめ、あそこはだめ、あの人はだめだ、この人はだめだ、うちの教会はだめだと言う。そして自分自身も駄目な信徒でございます、という。
しかしそうやって、あるべき姿というものさしを持って人に当てはめてみても、その人の本質は見えてこないのではないか。ものさしを当てると、合格か不合格か、二種類の人間にしか見えない。そしてだいたいみんな不合格になってしまう。しかしその人の本当の姿は結局見えないままになってしまう。その人のあるがままを受け入れることこそが大事だ。そのためにはものさしを当てる必要はない、当ててはいけない。
昔行っていた教会に金髪の青年がいた。顔は日本人。もともと黒い髪。最初はびっくり、教会にもこんなのがいるのか、なんて思った。ロックをやっているやつだったが、彼はとてもいい人間だった。頭を見ただけで、だめじゃないか、もっと真面目にしろ、といった気持ちで彼を見ていたとしたら、彼のことを知ることはできなかっただろう。彼を真面目な人間に変えて、金髪を黒い髪に戻してやらねば、なんてことをすぐ考えるが、本当はそんなことを考える自分の心こそ変えなければいけないじゃないか、と思う。
イエスは人を理解するためには何の物差しも持っていなかったのではないか。何の物差しも利用しなかった。イエスは律法を大事にした。しかし律法を人を裁く道具にはしなかった。律法を守るかどうかで人を判断することはなかった。
私たちは人を見るとき、いろいろな物を基準にして見る。それが便利だから。髪の毛の色、肌の色、偏差値の数字、どこの学校を出たか。だからこんな人だ。でもそれをするとその人の本質は見えにくくなってしまう。何か悪いことをしでかしたとか、髪を茶色にしたとか、ピアスをつけたとか、表面的なことだけで人を判断していると、その人の本質は見えなくなってしまう。
そんな目で見ていると自分の意にそぐわない人、自分の気に入らない人を変えようとする。
少し前に感銘を受けた本があった。「若い父親のための10章」その中の『家族のために祈るのをやめること』という章がある。その本の著者はそれまで家族がいい人間になるようにと祈っていた。何でも気がつく妻になるように、なんでもいうことを聞く子どもになるように、ということを祈っていたそうだ。しかしある時それは間違った祈りであることに気がついたそうだ。そしてある時から、そんな祈りをやめて、家族のために自分に何が出来るかを教えてくださいと祈るようになったそうだ。ところがその時から家族は変わり始め、家族の関係はよくなってきたそうだ。
イエスは言った、2:27「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。
教会では日曜日に礼拝を休んではいけません、ということをよく聞く。しかし日曜日が礼拝を休んではいけない日だとすれば、ファリサイ派にとって安息日が安息できないように、教会にとって日曜日が喜びでなく却って窮屈な日になっているのではないかと思う。
礼拝はクリスチャンになったからには出なければいけない、休んではいけない行事ではない、と思う。もしそう思うならそれはファリサイ派と同じ発想だろう。安息日は本来神の創造のすばらしさを賛美し、人々が日々の労働から解放されて安息する日であった。礼拝も同じだろう。毎日の生活から解放されて神の恵みを感謝し神の愛を知る時だろう。だから礼拝は休んではいけない行事ではなく、喜びの時のはずだ。休んではいけないから出るのではなく、大事だから大切だから出るものだろう。
ファイサイ派にとって律法はものすごく大事なものだった。ただ気まぐれに大事そうにしていたわけではない。しかし、それが余りにも大事なものだっただけに、却ってそれを大事にしすぎて、人間のほうをおろそかにしてしまったのではないか。人間よりも律法を大事にし、人間を律法に合わせようとしてしまっていたのではないか。
それはまるで人の足を、靴にあわせようと削ろうとしているようなものだ。そして彼らは自分の足も一生懸命に削っていたのではないか。靴にあわない自分の足を嘆いてもいたように思う。しかしイエスは言う、「安息日は人のためにある」。足があるから靴があるのだ。人間が先ずあるのだ、私が先ずあるのだ。靴にあわないといって自分の足を嘆くのは間違っている。あわなければ靴のほうを直さねばならないのだ。靴が大事なのではない、お前が大事なのだ、何よりもお前が大事なのだ、とイエスは言っている。お前がお前らしく生きるために私は来た、とイエスは言っているのではないか。
何のため
教会も人のためにある。人が教会のためにあるのではない。教会にやってきた人を教会のしきたりに会うような立派なクリスチャンに仕立て上げることが教会の仕事ではないだろう。忠実な教会員を作り上げることが教会の務めではないだろう。人を教会にあてはめるのではなく、むしろ教会が人に合わせて行かねばならないのだと思う。教会にやってくる人、そのものを大事にしていくこと、その人の命を大事にすること、その人に善を行い、その人の命を救うこと、その人を愛すること、それこそが教会の務めだろう。その人の苦しみや悲しみや嘆きをみんなひっくるめてその人をそっくりそのまま受け止めていくこと、それこそが教会の、私たちの務めではないかと思う。私たちも人をそうやって愛して行きたいと思う。何よりもイエスが私たちをそうやって愛してくれているのだ。