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礼拝メッセージより
説教題:「イエスに触れられる」 2001年4月22日 聖書:マルコによる福音書 1章40-45節
少し前にエイズの裁判の判決があった。血友病の権威と言われていた医者に過失があったかどうか、ということで無罪になったという話しだった。患者は相当怒っていたが。
依然エイズに関する記録映画をテレビで見た。アメリカでの話。エイズが流行する前に、科学者が大変な病気だから、もっとしっかり研究しなればならない、と言って研究費を要請したのに、時の大統領は認めなかった。どうして認めなかったのかというと、そのころ、エイズになるのは同性愛の人が多かったから。そんな人が罹る病気のために研究費なんか出せるか、といった雰囲気が国中にあったらしい。それは天罰だ、とはいわないけれど、神の裁きだと思っていたらしい。もし、その頃にもっと真剣にエイズのことに取り組んでいればこんなに流行することはなかったそうだ。
とぼくらは後になってから偉そうなことは言えるけれども、この病気のことを何となく知っているようで、実はあまりよく分かっていないのかも。特に日本ではエイズのことをちゃんと理解していない人が多いそうで、そのためにエイズの対する偏見がひどくて、感染しているけれども、家族以外の人には誰にも言えない、という人もかなりいるそうだ。
私たちは、こういう人がいると、よってたかっていじめぬく性格がある。すぐにうわさのねたにして、変な目で見る。普通でない人に対する仕打ちはすさまじいものがある。自分と違う、自分たちと違う者を村八分にするのが得意。昔の5人組の名残かいなと思ったり。なにがなんでも同じにしないと気が済まない、ということが日本にはいっぱいある。それに少しでもはみ出したら、なんとかして同じにさせようとする。普通にさせようとする。それでもだめなら、つまはじきにしてしまう。
こんな病気は人には言えないというような病気がいっぱいある。精神的な病気などは最たるものかもしれない。病気に苦しみ、それ以上に世間の目に苦しめられている。そんな苦しみにあっている人がきっと大勢いるに違いない。
イエスの時代のらい病人は、今のエイズの人たちと同じような苦しみにあっていた。小見出しはらい病人のいやし。らい病にかかった者は民の交わりの中から閉め出されていた。ユダヤ教つまり、神の民の中から閉め出されるということ。恐ろしい病気。ユダヤ教から締め出されると言うことは、社会からも締め出されるということに等しかった。
レビ記13:45 「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」
らい病人は、自分で自分のことを「汚れたもの、汚れたもの」と叫ばなければならない。祭司にとっては、らい病人は生きながら死せるものとみなれていた。そのいやしは死人を甦らせるのと同じくらい困難だとされていた。
他の病気でない人々とは別世界に生きていた。命ある世界とは別の世界に生きていた。そこには越えがたいへだたりがあった。
だかららい病が治った時も、それを祭司が調べ、治っていたら清めの儀式をしなければならない。そのへんのことがレビ記14章に書かれている。イエスが44節で「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と言ったのはこのこと。イエスは結構、律法を大事にしている。そして正式に社会に復帰する手続きをとるようにと言っているということだ。
このようにらい病の人は社会から完全に孤立していた。そのらい病人に話をするということは普通では考えられないことだった。ましてその人に触れるなんてことは異常なこと。
41「イエスが深く憐れんで」あわれみを持って、イエスは手を差し延べた。
ここを「怒りに満ちて」と書いてある写本があるらしい。らい病人を苦しめるサタンに対して、怒りを持って戦いを挑んだ。
病人を深く憐れむことは同時に病人を苦しめるもの全てに対する激しい怒りでもあった。
怒りはこの人を苦しめるらい病という病気に対してだけではなく、この人を神の民から閉め出している、この人を「汚れたもの」として差別している者たちすべてに対する怒りかもしれない。自分たちは清い、こいつらは汚れている、と言って、自分たちとそれ以外の者との間にへだてを作ろうとするすべての者に対する怒りではないか。
そしてその怒りは同時に差別されている者、見捨てられている者、ひとりで苦しんでいる者への深いあわれみとなっていった。クリスチャンは怒ってはいけない、と考えている人がいる。でも怒るべきときには怒らなければいけない。ひとりの人間を、その人らしく生きさせないものに対して、また人を差別するものに対してはもっともっと怒らなければならないのではないか。
「イエスは手を差し伸べてその人に触れ」と書いてある。イエスの方から手を差し出して彼にさわった。触るには同じ高さにいないとさわれない。高いところにいたのではさわれない。選挙があると街頭演説というのをしている。高いところで威張って話していても、さすがに握手をするときにはおりてくる。
手を触れることのできる所にイエスは立っている。すぐそばに立っている。そして手を伸ばして下さっている。イエスは別世界にいない。らい病を患って苦しみ、差別され、のけものにされ、邪魔者あつかいされているその人のすぐ隣へ来られた。
そしてイエスはこの人を深く憐れんだという。憐れみとは「わたしは汚れている」と自分から言わなければならない、その人の悲しみを自分の悲しみとすることではないか。その人の苦しみを自分の苦しみとすることだろう。
イエスはその病気をいやした。病気だけではなく、彼をしばりつけていた全てのしがらみから解放した。イエスは彼の魂もいやした。
イエスは神に敵対する全ての力に立ち向かっている。人を神からひきはなす全ての力と戦っている。そして勝利を収めた。
私たちもイエスに触れられた者、今触れられている者ではないか。イエスは孤独な、ある、らい病人に触れられただけではない。イエスは私に手を伸ばして下さっている。
らい病はとても治せるような病気とは思えなかった。とても汚れていると考えられていた。だからこそ、らい病の者は神の民の仲間入りをできるとはほとんど考えられなかった。
そのようないろいろな壁をつき破って、イエスは来られ、手を伸ばしておられる、触れておられる。
きよい者と汚れたもの、神の民とその外にある人々といったすべてのかきねをつき破ってこられた。イエスは人間が作るいろいろな壁をつき破っていかれる。そうやって私たちの所へ来られた。それは私たちの苦しみや悲しみや痛みをも共に担って下さるためだ。
私たちは自分がだらしのない駄目な人間だと思っている。こんな私は立派な人間の側ではなく駄目な側にいると思っている。そうやって自分で垣根を作って駄目な方にいると思っている。落ちこぼれの側にいると思っている。あるいは逆に落ちこぼれないために必死になっている。けれどもイエスはそんな垣根を壊してしまった。どこにいてもイエスはすぐ隣にいてくれているのだ。どんな人間であろうと、どんな状態であろうと共にいてくれているのだ。
私たちは普通でなければならないような、普通にならなければいけないような思いに縛れているのかもしれない。でも本当は普通なんてのはきっとない。普通というのは妖怪なのだ。現実にはいないのだ。でもその妖怪に振り回されているという気がする。普通の教会、普通のクリスチャン、普通に日本人、普通の人間。本当はみんな違う、それぞれに違う。その違いを自分自身が認めることが先ずは大事なことだろうと思う。違いを認めないことから普通でない人を苦しめることになり、普通でない自分を苦しめることになるのではないかと思う。本当は普通の教会とか普通のクリスチャンとか普通の人間というものほどつまらないものはない、と思う。
イエスは差別されている者、苦しんでいる者、悲しんでいる者を尋ね歩いた。探してあるいた。私たちのまわりにそんな人はいるか。いないような気がする?でも本当はいっぱいいるのだろう。
イエスが今の日本に来られたら、国中いろんなところをまわっていくに違いない。私たちが気づかないような人を捜し出していくに違いない。神は私たちがそこへ行くことを期待されているのではないか。差別され、苦しめられ、悲しんでいる人のところへ、神は今度は私たちを遣わそうとしているのではないか。私たちの教会の周りにもそんな人がきっといっぱいいると思う。神に憐れんで欲しいと願っている人がいっぱいいることだろう。そんな人たちのところへ今度は私たちが私たちの教会が、イエスを伝えて行きたい、連れて行きたいと思う。
私たちは教会を維持することに汲々としている。人も少ない献金も少ないというのが口癖だ。でも教会を建てるも倒すもそれは神がすることだ。と誰かがメールに書いていた。そうすると神がしっかりと支えている教会を私たちは倒れたら困るからといって一所懸命に支えているということかもしれない。それよりも私たちがすべきなのはこの神をイエスを伝えることなのではないか。いろんな人にイエスのことを知ってもらうことだろう。
こんな話がある。ある人が今の世界の状況を嘆いて神に言った。「神さま、どうしてあなたはこの苦しんでいるこの人に何もされないのですか。」神は答えた。いやもう私はした。私はお前を創った。」
らい病をいやされた男は、そのことを伝えずにはいられなかった。私たちはイエスにふれて貰っている。触れてもらって喜びを伝える者になりたい。そこには大勢の人が集まったという。イエスにはそれほどの魅力があるのだ。そのイエスを伝えて行きたいと思う。