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礼拝メッセージより
説教題:「逆転」 2001年4月15日 聖書:マルコによる福音書 16章1-8節
復活とは、イースター。よう分からん。見たこともないし。福音書にはイエスがどんな風に復活したのかなんて書いてない。むくむくと起き上がって、なんて書いてあればいいのに書いてない。それを見た人はいなかっただろうから仕方ないが。
ユダヤの一日は日没とともに終わる。そして次の一日が日没とともに始まる。
安息日が始まる前の日にイエスは十字架に付けられた。そしてその日の夕方には墓に入れられた。遠くから十字架を見守っていた女の人達のことが15章40節に書かれている。その内の二人が墓を見にいったことが47節に書かれている。
墓に埋葬されたのが夕方であったということはその日がもうすぐ終わり、次の日が始まろうとしている時だった。次の日とは安息日で、安息日には労働をしてはいけないという決まりがあり、あわてて埋葬したために遺体の処理を十分にする暇もなかったらしい。そしてそのことを女の人達はとても気にしていた。
イエスが十字架で殺された次の日、その安息日はいわば沈黙の日だった。マルコによる福音書もその安息日のことは何も書かれていない。
イエスについてきた彼女たちにとってはつらい沈黙の続く24時間であったに違いない。彼女たちは事の成り行きをずっと見守っていた。この数日の出来事を見ていた。そして、イエスが十字架で処刑されたことによって、どれほどのショックを受けたであろう。イエスは捕らえられ、事態は思わぬ悪いほうへと向かっていった。そして結局は最悪の結果となった。
しかし彼女たちはそこを去ろうとはしない。死んでしまったイエスにも関わり続けようとする。男たちはみんなそこを去ってしまった。彼らは気が動転して、また自分自身の身の危険を感じてか、その場所にいることができなかった。しかし彼女たちはどこか冷静である。あるいは強さがあるのかもしれない。地に足が付いている。彼女たちはイエスの遺体の処理を早くしなければ、という思いで安息日が終わるのを多分待ちかねて香料を買いにいく。安息日が終わるのは日が暮れてからだから、日が暮れてから暗くなるまでのわずかの間に香料を買い夜を迎えたことだろう。そして夜が明けて明るくなる頃にはすでに墓に向かって行ったのだろう。夜が開けるのを待ちわびていたのではないか。
彼女たちはただ悲しみにうちひしがれているだけではなかった。思わぬ事態にただうろたえているだけではなかった。自分たちの出来ることを、自分たちのすべきことを見つけてそれをしようとする。先ず、自分にできるところから行動を起こしていった。
香料は幾らくらいする、それをあそこの店で買って、そして明るくなってから墓に行って、といったことを相談することで彼女たちは一瞬悲しみから解放されていたのかもしれない。
一見どうでもいいような小さなことの中に女たちの愛情は注がれる。そんな心遣いが世の中にうるおいを与えている。そしてそれは決してどうでもいいことではないのだ。彼女たちは自分の出来る精一杯のことをしようとする。
しかし彼女たちにとってまだ大きな問題が残されていた。それは墓の入り口の大きな石があるということだった。とても自分たちの力でどうにかなるような代物ではなかったようだ。その石をどうにかしないことにはイエスに油を塗ることもできない。彼女たちの計画はまるで実行できない。いちばん大きな問題を残したまま出かけた。大きな問題を抱えてもなお彼女たちは動き出している。動かないではいられないと言った方が正確かも。
しかし、その問題の石はもうすでにどけられていた。そのお陰で、彼女たちは墓の中へ入っていった。しかしそこにはイエスの姿はなく、ただ若者がいるだけだった。
ところが若者が復活を告げる。6節「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさってここにはおられない。・・・」なんてことを言う。全く予期せぬ事態に驚く彼女たち。イエスの遺体はなく、変な若者がいただけ、そして訳の分からんことを言われた。8節を見ると、彼女たちの驚きぶりが分かる。震え上がり、正気を失っていた、そして恐ろしくて誰にも何も言わなかったと書いてある。
教会にとって都合のいいことが起こった?教会の宣伝になるようなすごいこと?とんでもない。そんな悠長なことを言ってる場合ではない。
彼女たちはイエスの復活を聞いて大喜びで帰った訳ではなかった。
イースターはイエスが復活した嬉しい日。そんな単純なものではないのかもしれない。イースターは震え上がる日なのかもしれない。
イエスは復活なさった、と書かれている。しかし正確には復活させられた。神によって甦らされた。イエスは弱い人間のままで十字架で殺された。絶望の叫びをあげて。いかにもうちひしがれて、と言った有り様。
イエスはその絶望するような状況を自分で振り切って自分の力で復活した、と聖書は言っていない。復活させられた、と言っている。神によって復活させられた、と言っている。そこまでただの人間でありつづけたということか。
イエスがどのように復活させられたのか、よくは分からない。どんな形で復活させられたのかもよく分からない。肉体をもってなのか、それとも幽霊みたいなのか、よくは分からない。しかしよくは分からないが復活のイエスは自分について来ていた女たちや弟子たちに会ったことが福音書に記されている。
そしてそのことから弟子たちを元気になっていった。彼らは絶望していた。神よ、どうして私を見捨てたのかと叫んだのは十字架上のイエスだけではなく、弟子たちも同じだったのかもしれない。とても自分たちの力でその状況からはい出ることは出来なかったのではないか。
神はイエスを復活させた。そして今度は弟子たちを復活させた。十字架の上で絶望したイエスを神は復活させ、さらに十字架の下で絶望した弟子たち復活させたのではないか。イエスは復活した後で、弟子たちと出会っていった。そのイエスとの出会いが弟子たちにとっての復活だった。
イエスは復活させられた。死からも復活された。イエスを縛りつけるものは何もないことが明らかにされた。
しかしそのイエスとの出会いがなければそれはただの不思議な話に終わってしまう。イエスと出会うことで弟子たちにとっての復活があったように、私たちもイエスと出会うことで初めて私たちにとっての復活、イースターがやってくるのではないだろうか。
マルコによる福音書は16章の8節で終わっている。9節以下は括弧になっている。これは多分後で足したものだろう、というのが通説。マルコによる福音書は新約聖書の中の四つの福音書の中でも一番最初に書かれた福音書。しかしその最初の福音書には復活後のイエスの姿は何も書かれていない。なぜなのか、いろんな説があるようだ。なくなってしまったのではないかとか、ここまで書いたところで書けない状況になったのではないかとか。
マルコは敢えて復活のイエスを書かなかったのではないかと思う。それは復活のイエスの姿がどうであったかを書く必要がなかったからではないか。十字架につけられる前のイエスは、そのまま復活のイエスだから。つまり生前のイエスがそのまま復活のイエスだから。
天使は弟子たちに伝言を伝える。それはイエスは先にガリラヤへ行かれるということだった。ガリラヤ、そこは弟子たちにとって生まれ育った所、またイエスについて行って活動した場所。かつてのイエスと生活を共にした場所。そこでまたお目にかかれる、と天使は告げる。それは生前のイエスを知ることが復活のイエスを知ることでもあるということではないか。イエスのすがた、イエスのことばを再認識すること、そのことがイエスと再び出会うということでもあるのだろう。
ガリラヤとは彼らの日常の生活の場所でもあった。イエスは復活させられて弟子たちから遠く離れた所へ行ってしまったのではなく、弟子たちが普段生活をしている場所へ、それも先に行かれる。
そしてまたガリラヤは弟子たちが逃げ帰って行く故郷でもあった。イエスを見捨てて逃げて行く所でもあった。落ちぶれて帰って行く場所でもあった。しかしそこしか帰るところはなかった。しかしイエスはそこにも先に行かれるという。自分の駄目さを嘆き失望し挫折し、そして人目を避けて逃げ帰って行く所、そこにイエスは先に来ておられるのだ。
イエスは私たちと共にいるために復活させられた。いつも私たちと共にいるために復活させられた。