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礼拝メッセージより
説教題:「十字架」 2001年4月8日 聖書:マルコによる福音書 15章16-41節
衝撃の映像なんて言うテレビがある。その中にときどき出てくる映像に、ベビーシッターが子ども、というか赤ん坊をひっぱたくなんてのがある。また同じ番組だったと思うが、アメリカでは白人の警官が交通違反をした黒人をよってたかって暴行するなんてこともあった。何でそこまでできるのかと思うほどめちゃくちゃに殴る蹴るを繰り返していた。ショッキングな映像、とかいうことで放送していたが、こんなのを見るとこんなひどいことをする人間もいるのか、なんて思ってしまう。
また戦争の時にも、殺戮をし、暴行をした。戦争なのだから、そこで何をしようとほとんどばれることもない、何をしたって皆殺しにすれば証拠もなくなる。あるいは捕虜をめちゃくちゃ働かしたり、捕虜だけではなく、戦争の時には上官が下のものを、気まぐれに殴ったりしたことも聞いた。
完全に弱い立場にあるものに対して人間はそんな態度をとりがちである。何でそんなことをするのかと腹立たしい思いがする。そんな奴のことを憎らしく思う。それが人間の本質なのかもしれない。そしてイエスの周りにも似たような者がいた。
イエスに対しても、兵士たちは総督の官邸の中にひいていき部隊の全員を集めた。部隊の全員となると600人くらいだそうだ。イエス独りのために600人。そして「ユダヤ人の王、万歳」といって馬鹿にした。紫の衣は王の衣の代わりであったらしい。そして茨の冠は王冠の代わりだろう。敬礼をしたり拝んだり、また逆に葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけたりして侮辱した。十字架にかけられるものに対してのいつもの仕打ちだったのかもしれない。あるいはイエスに対してはいつにもまして念入りに侮辱したのかもしれない。
神はどうしてこんなことを許されたのか。人間の罪を思い知らせるためか、人間の醜さを思い出させるためか。人間の本心を暴露するためか。確かに何でも自分の思い通りになるところで人間の本心は出てくるようにも思う。
遊び疲れてか、飽きてしまったからか、兵士は紫の衣を脱がせてもとの服を着せた。日ごろの、指揮官やその上の権力者への不満を、こういう形ではらしているのかもしれない。王様ごっこをしてイエスをいじめることで多少の憂さ晴らしができたということか。そう言えば最近のいじめでも、いじめている側は、なにかに付けてむかつくと言うそうだ。最近の若い者の口癖でもあるようだ。だからいじめをしてむかつく気持ちをはらすらしい。
兵士たちはそこを通りかかったシモンという人に十字架を担がせる。張り付けにされるものは自分で十字架の横木を運ばされたそうだが、イエスにはその力も残っていなかったということか。シモンの子どものアレキサンデルとルポスは後にイエスを信じるものになったそうだ。
そしてイエスはゴルゴタという所に連れて行かれる。その丘がされこうべの形をしていたからとか、処刑場でされこうべがごろごろ転がっていたからそんな名前がついたとかいう説があるらしい。そのゴルゴタで、処刑人たちはイエスに没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。これには激しい麻酔効果があり、苦痛を和らげるためのものだったらしい。しかし、イエスはそれを拒否した。あたかも自分の死をだれにも邪魔させない、苦痛を受けることをも邪魔させないためでもあるかのようだ。
そして彼らはイエスを十字架につけた。
十字架のもとではくじが引かれる。処刑されるものの服を処刑人が分配する習慣になっていたそうだ。石を投げるくじがあったらしい。争って石を投げ、落ちた先を確かめて着物を奪い合ったのかもしれない。頭上には十字架につけられたイエスがいることも忘れたこのゲームに興じたのだろう。
十字架のもとになにやら暗く冷たいものが渦巻いているようだ。キリストのもとで、神のもとで、人間は思うままに振る舞う。欲望のままに振る舞う。そこは人間の心の奥底があらわにされるところなのかもしれない。
十字架のもとでの兵士たちの姿は、人間の心の奥の有様を見せつけている。人間は十字架のもとでくじを引き合い、着物を分け合った。キリストの名の下に、神の名の下に人々は争ってきた。そこでは殺し合い、傷つけあうこともあった。自分の欲望を満足させるために、思いのままに振る舞ってきた。
くじを引き合い、争っている、そのすぐ横に十字架は立っている。そこに服をはぎ取られたイエスは、十字架につけられている。すべての人間の暗く冷たい欲望の渦巻く所、そこに十字架は立っている。その下にどんな人間がいても十字架は立っている。
十字架のもとにいる人々の中に自分自身の顔を見る。十字架のもとで争い、人を愚弄し、服を取り合う人々は自分の姿そのものでもある。どうにもならない、手の施しようのない人間の中に自分がいる。何とも悲しくなるような現実がそこにある。人間の罪が、醜さがそこに表れている。しかしまさにそれこそが自分たちの実体そのものではないか。私たちの心の奥底には兵士たちと同じ思いが渦巻いているように思う。何もかも自由になるとすれば私たちは一体どんなことをするだろうか。明日で世界が終わるとすれば何をするか、なんてことを考えたときに、何でもしたいことができるとなったときに一体私たちは何をするだろうか。今まで押さえていた欲望が吹き出しそうな気がする。そして実際私たちはそんな醜い、誰にもいえないような欲望を心の奥底に持っているのだろうと思う。
イエスの十字架はそんな人間の真ん中に立っている。そんな人間のどろどろした欲望、罪の真ん中に立っている。イエスは人々の過ち、不当な仕打ち、すべてを包み込んで、すべてを飲み込んで十字架についている。イエスはこうまでされてもなおも何もしない。間違いを指摘するでもなく、間違いを正すでもなく、すべてを飲み込んで、すべてをそのままに受け止めて、包み込んで、そして十字架についている。
間違いだらけの私たちの傍らに十字架は立っている。すべてを背負って、イエスは十字架についている。
処刑場にやってきた囚人たちは十字架に堅く縛られるか、あるいは手首を釘で打ちつけらるそうだ。そして囚人たちは十字架上で力尽きて死ぬまで苦しみ続ける。十字架刑は当時もっとも屈辱的な刑で、普通1日か、2日間苦しんでから死んだそうだ。死んだあとの死体も普通は野ざらしにされ、鳥やけものの餌にされていたらしい。
イエスは朝の9時に十字架につけられた。そして十字架につけられてからも、道行く人や祭司長、律法学者たちにあざけられた。「十字架から降りて来い、そうしたら信じてやろう」という風に。またイエスと共に十字架につけられた囚人からも罵られた。
昼3時に息をひきとるまで6時間、十字架の上で苦しみ続けたの。どんな痛みだったのか、どんな苦しみだったのか、想像もできない。
そしてこの時、イエスの12弟子たちはもうそこにはいなかった。マルコ14章を見ると、イエスの弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げ出してしまっている。後でこっそり追ってきたペテロも、まわりの者から問い詰められ、3度イエスを知らないと言う。一緒に行動をともにし、一緒に生活をしてきた12弟子はもうすでにいない。そこには遠くから見守っている女たちがいるだけだ。
イエスの最後の言葉は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」つまり、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」であったと記されている。人々に完全に見捨てられ、そして神からも見捨てられた、その様な状況にイエスは立たされた。
神の子が、どうして絶望して死んでいかねばならないのか。そもそもキリストがどうして殺されてしまったのか。本当にそんな人がキリストなのか。キリストならもっとましな死に方があるのではないのか。神に完全に信頼して、苦痛を耐え忍んで、讃美歌でも歌いながら死ぬべきではないか。神の子ならどうにかしたらどうなのか。そのままじっとして、弱いままで死ぬことはないではないか。そんな気がする。
この時、この光景を見ていた者の中にも、同じように考えている人がいた。31節を見ると、「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と言った人がいたと聖書は語っている。この人たちは海綿にすい葡萄酒を含ませて飲ませようとした。この葡萄酒は気付け薬だそうだ。
こういうときこそ、奇跡をおこして、十字架からスーパーマンのように下りてくる、それこそがキリストである。私たちもそんな風にしばしば思う。
イエスは様々な奇蹟を行ってきた。イエスが奇跡を起こすことができなかったのだろうか。その気になれば,十字架から下りてくることも可能だったのではないか、と思う。しかしイエスは敢えてそれをしなかったのではないか。
神とはいったい何なのか、神とはどういうものなのか。いろいろなイメージ、人それぞれに持っているだろう。すごい奇跡をおこす方。光輝く姿で悪者を懲らしめ世の中の不正を正していく、そしていつもどこか高いところから、私たちを見ている、それが神のあるべき姿、こんな姿でなくても、だれもがそれぞれに神のイメージを持っているのではないか。でも誰もが持っているイメージにはとても似つかわしくない姿がここにある。私たちの期待に答えるような姿は十字架の上にはない。
イエスは絶望の声を上げて息を引き取った。まさに敗北の死の有様といった感じがする。そんな死に方をする者をだれがキリストだと思うだろうか、だれが神の子だと思うだろうか。だれが信じることができるだろうか。あの言葉は単なる絶叫ではないはずだ、あれが絶叫だなんて思いたくない、キリストがいくら十字架につけられているからといっても、絶叫して死ぬなんてことがあるはずがない、というような気持ちもある。何か深い意味のある言葉に違いない、と思いたい気持ちになる。十字架の姿だって、単なる仮の姿でしかないに違いないと思いたくなる。本当の神の姿はこんなんではないのだ、と思いたくなる。
ところがこのイエスの姿を見て、この人こそ神の子だという人がいたのです。39節『百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。』百人隊長とは100人の兵隊の長で、百卒長と訳している聖書もある。
この人は大声を出して絶叫して死んでいったイエスを見て、「この人は神の子だった」と言った。ところがこの人はイエスにいばらの冠をかぶらせ、つばきをかけ、十字架につけた兵士たちのうちのひとりである。この隊長がイエスを見て、「まことにこの人は神の子であった」と告白している。孤独に苦しみ、痛みに苦しみ、絶叫して死んでいったイエスを目の当たりにして、この人は神の子だ、と告白しているのだ。彼にはイエスが神の子であることがわかったのだ。
そこには神のしるしといったものは何も見あたらない。しかし、百人隊長はそんないわゆる神々しいしるしを見たからではなく、絶叫して死んでいった有り様を見て、イエスが神であることを知ったのだ。どうしてそんなことがわかったのか、それは分からない。それを感じ取ったと言ったほうがいいのかもしれません。
38節 『すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。』と書かれている。神殿の奥の聖なる場所には大祭司が年に一度しか入れなかったそうで、その聖なる場所を仕切る幕がこのとき二つに裂けたという。
これはとても象徴的な出来事だ。聖なるものと俗なるものを分けていたものがこの時になくなった。聖なる場所が神のいる場所、俗なる場所は人間のいる場所、神はいない場所として分けられていた。しかし聖なる神は俗なる人間のもとへ来られた。神を見失い、絶望し、絶叫する、そんな所へ神の方から来られた。ここに神殿の垂れ幕が裂けたことがかかれているということはそういうことを象徴しているのだろう、と思う。
神はイエスにおいて、私たちと出会ってくださった。イエスにおいて私たちと面と向かい合ってくださったのだ。同じ所まで来てくださった。同じ高さに立ってくださった。そして苦しみをも味わってくださった。私たちと同じ苦しみを、それ以上の十字架の苦しみを味わってくださった。人に捨てられ、神にも捨てられ、完全に孤独な状況に立ってくださった。最後まで弱い人間として、私たちと同じ弱い者として、苦しみを忍んでくださった。最後まで私たちと同じ所にいてくださった。絶叫するしかないような所まで、共にいてくださった。
苦しみにあい、全く望みもない、すべての者に捨てられ、失敗し、落ち込み、神などいないと叫ぶとき、しかしそこにもイエスはいてくださる。そこにも神の手はすでにそこまで伸ばされている。
ある禅の大家の話を本で読んだ。この人はいろんな問題を持った人から相談を受けるそうだ。いろんな人が禅で解決してほしいと思って来るそうである。この人なら解決してくれるに違いないと思ってくるらしい。その先生は耳が遠いので、相談に来た人の口許に耳を寄せて、額にしわを寄せながら悲しそうにその人の話を聞く。そしてその先生は、困ったな、困ったな、と言われる。そしてどうしたらいいでしょうか、と聞かれると、先生はまた困ったな、困ったなと言われるそうです。そうやって相談者と一緒になって困ることが、その困った人から困ったものを追い出す力になったのではないか、とその本には書いてあった。
イエスは十字架で絶叫した。私たちの現実も絶叫するようなものでもある。イエスは絶叫し苦しみもだえている私たちのところに来て下さっている。私たちがどれほど苦しんでいるかも知っている。苦しみがどれほど人を痛めつけるのかも知っている。
イエスの名において祈ることで、私たちが望んでいるような奇跡は起きないかもしれない。しかしイエスは私たちの願通りに奇跡を起こすよりも、あるいはまた、イエスの思うように人をどうにかすることよりも、ただ共に居ようとされたのだと思う。
先日のテレビにひきこもりをしていた青年が出て話をしていた。そこに評論家だったかのおばさんたちと、参議院議員のおじさんが出ていた。そこでおばさんたちが青年の話に対して、これはこういうことなんでしょ、これはこうなんでしょ、どうしてこうしないの、どうしてそうなの、という言い方を盛んにしていた。青年を質問責めにするという感じだった。結局青年のいうことをじっくり聞く前に話し出してしまうので話がかち合わない感じだった。すると参議院のおじさんは最後に、そんなにぽんぽん話をされて、俺もひきこもりたくなってきた、なんて言っていた。
イエスはどんな時にも見捨てたりしない。人が皆見捨てても、神などいないと言ったときでも見捨てない。私たちがどうしてこんなことに、どうしてこんなことが、という時に、イエスは私たちと共にいてくれる。一緒に泣いてくれる、一緒に悲しんでくれる、一緒に悩んでくれる、そういう仕方でイエスは私たちのそばにいてくれる。イエスはどこまでも共にいてくださる。十字架につけられ殺されても、それでもイエスは共にいる。罪にまみれ、どろどろしたものいどっぷる浸かっているそんな私たちといつまでも共にいる。私たちはひとりぼっちではない。私たちはひとりぼっちにはならない。たとえ全世界が見捨ててもイエスは見捨てない。それがイエスの約束でもある。