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礼拝メッセージより
説教題:「時は満ち」 2001年4月1日 聖書:マルコによる福音書 1章9-15節
「預言者イザヤの書にこう書いてある」。マルコの福音書の冒頭にそんな言葉が出てくる。福音書は、これはイエス・キリストの福音を書いてある、という言葉に続いて、旧約聖書引用、つまり旧約聖書のここにこう書いてある、ということから始まっている。
つまりイエス・キリストの出来事は、昔から神が伝えていたこと、約束していたことが実際に起こったことがらだ、ということ。
その神の約束の中に、「先に使いを遣わす」ということが書いてある。キリストの登場の前に、使者を送る、と神は約束している。
当時の人たちはこの使者はエリヤだと思っていたらしい。エリヤとは旧約聖書の預言者のひとりで、イエスが十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言った時に、エリヤと呼んでいると思った人がいたことが福音書に書かれている。そのように、まず先に使者が来るということは知られていたようだが、その使者こそがバプテスマのヨハネである、とマルコは告げている。旧約聖書によれば、エリヤはらくだの毛布を着て、革の帯をしていたと書かれていて、ここのバプテスマのヨハネとそっくりの恰好をしていたようだ。
3節の「荒れ野で・・・」はイザヤ書40:3。このイザヤ書はバビロン補囚の時代に書かれた。自分たちの国が他の国に占領され、指導者たちはその国に捕らわれていった、そんな時代に神が語った言葉が、この言葉だった。荒れ野とは文字通り荒れた地で、石がごろごろしているところ。その土地に神は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言われる。道のない荒れ地に道を備えよ、と神は言われる。神が捕らえられている者たちをイスラエルに返す道を備える、もうすぐ解放される、自由にされる、もうすぐ帰れる、神がそう言っている。捕らわれているバビロンとイスラエルとの間が、実際にこの荒野だそうだ。そこに道を整えよ、と神は言われる。
見通しが全く立たない苦しい状況だった、にもかかわらず神はその真っ暗闇の真ん中に道を備えようとされる。イザヤはそのことを伝えた。
そして荒野とはまた私たちの人生そのもののことでもある。私たちの人生も、大きな石がごろごろして歩きにくく、太陽が容赦なく照りつける、日陰になる木もほとんどない、そんな荒野のようなものかもしれない。しかし、その人生の荒野にも神は道を付けようとされているといのだ。人生の荒野に神は来てくださる。そして私たちを縛りつける全てのものから私たちを解放する時、その時が今やって来た、この約束が今成就するという喜びが語られている。神が来るという喜び、神が私たちのところへ来るということ、そしてヨハネはその先駆けであるということ。ヨハネは神が遣わされた使いであって、イエスをの道筋を整えるものである、とマルコは告げる。
ヨハネは荒れ野で語った。何もない荒れ野で語った。そこにユダヤ全土とエルサレムの住民は皆来たと書かれている。罪のゆるしは全ての人が受け取ることができる、また受け取るべきものであるからこそ。そのためには悔い改めなければならないという。悔い改めとは、向きを変えること。人間の性質、性格を変えてしまうことではない。そうなるかもしれないが、大事なのは、神との関係を変える、つまり神の方を向くということ。自分の進むべき方向へ向かっていく、そっちの方向に向きを変えるということ、それが悔い改め。
幼稚園の運動会などでは、ヨーイドンで時々反対に向かって走っていく子がいる。そういうのを見ると笑ってしまうが、私たちの人生も、全く違う方向に向かって一生懸命に進んでいるようなものかも。間違った方向に行っていることにも気づかずにいるというのが私たちの歩みなのかもしれない。そんな私たちが神の方に向き直って進むこと、それが悔い改め、悔い改めとは、その時から突然立派な、罪のない人間になることではない。
神の方向へ向かって行くためにも、神の言葉を聞いていかねばならない。どっちが本当の向きなのかを聞いていかねばならない。
最近の車にはナビゲーションシステムというのがよくついている。道案内をしてくれる装置というもの。これの多くが、人工衛星の電波を捕らえて、自分がどこにいるのかを知るもの。今自分の車がどの町のどこの交差点にいるのかがわかる。それでどこに行きたいというのを入れておくと、走りながら次の交差点を右に曲がってください、なんてことまで言ってくれるのもあるとかいう話。聖書というのは、この人工衛星みたいなものかもしれないと思う。その電波をキャッチすることで正しい方向に進むことが出来る。私たちの向かって行くべき方向も分かる。
荒野に登場したヨハネは私よりも力のある方があとから来る、と言う。ヨハネ自身はその方のくつのひもを解く値打ちもない、とさえ言う。神だから比べ物にはならない、そんな人間とは比べ物にならない方が来られて、聖霊によるわざを始められるとヨハネは告げた。
そのイエスはまず何をしたか。ヨハネからバプテスマを受けた。聖霊によるバプテスマを授けると言われている方が、まずバプテスマを受けられた。ヨハネが言っていることから考えると、ヨハネの方こそ何かをしてもらうことはあっても、ヨハネがイエスに何かをするなんてことはおかしいように思う。逆じゃないのと思う。ちょっと変じゃない、と思う。しかしちょっと変じゃないかと思うことをイエスはされた。
イエスはバプテスマを受けるところから自分のわざを始められた。そもそもヨハネのバプテスマは、悔い改めのバプテスマだった。そのことから考えれば、イエスがバプテスマを受ける必要はなにもなかった。罪のないイエスにバプテスマは必要ない。バプテスマを受けるのは罪人。罪人が悔い改めたら受ける。神を忘れて神に向かっていなかったものが、神の方を向き直った時に受ける。だからバプテスマは罪人が受けるもの。
しかしイエスはバプテスマを受けた。なぜか、それはイエスが罪人の側にいようとしたから、ずっと罪人と共にいようとしたからではないか。イエスは罪人とは反対の聖なる場所にずっといようとはしなかった。自ら進んで罪人の側に来られた。罪深い、弱い人間と同じ所に立とうとされた。実際に立たれた。だからバプテスマを受けられた。イエスはその活動の最初から人間の中におられた。罪人の中におられた。そしてずっと、十字架に至まで罪人の中におられた。罪人の真ん中におられた。
そこで、罪人の真ん中でイエス自身が聖霊の力に満たされた。「10節」神は天にいて、私たちとかけはなれたところにいるのではない。神は天を裂いておりて来られた。神は遠い遠いところからじっとこの世を見ているのではない。私たちの中に来られた。私たち罪人の中に来られた。そして神の力は罪人の中で発揮される。
また神はいわゆる聖なるところにだけいるのではない。エルサレムだけにいるのではない。教会だけにいるのではない。清い、きれいな、罪のない世界だけにいるのではないのです。もちろんエルサレムも教会も清い罪の世界ではないが。私たちが神に会うのは、私たちのきたないものを脱ぎ捨てたところで会うのではない。脱げればいいが、、。風呂場で洗い落とすこともできない、、。私たちの中に、私たちの普段の生活の中に、私たちの罪にまみれたこの世の生活の中に、イエスは来られた。罪の真ん中に来られた。毎日毎日私たちはイエスと共にいる。毎時間、毎分、毎秒、イエスと共にいる。それは私たちが神の中を生きていると言えるほどだろう。それはイエスがここにも来られたから、私たちの所にも来られたから、罪人である私たちの真ん中におられるから。
「11節」。神は大事なつとめをイエスに託された。この世の主として君臨することを許された。しかしそれは罪人を滅ぼすためではない。そうではなく、罪人を罪から解放して生かすため、そのために自らしもべとなって、人々に仕えるためであった。
イエスがヨハネからバプテスマを受けたとき、外見は他の人と何の区別も出来なかったのだろう。急に光輝くようになったわけではなく、目立たないひとりの人間としてバプテスマを受けたことだろう。まったく普通の人間と同じように、罪人と同じようにバプテスマを受けたことだろう。そんな風にイエスは私たちの真ん中にいる。罪人の真ん中にいる。そしてずっと罪人の真ん中にい続けた。取るに足らないような者たちの真ん中にい続けた。そしてそれこそが神の御心、神の心にかなうこと、神の子にふさわしいことだ、と天からの声は語っている。
しかし、その時人はイエスが分からなかった。神の子であることが、救い主であることが分からなかった。そして十字架につけて殺してしまった。
マルコはイエスこそ神の子であると信仰をもって語る。イエスこそ神である。イエスこそ救い主である。罪人の真ん中に来られた、私たちの真ん中に来られた、私のところにも来られたキリストである、マルコはそのことを語ってゆく。
イエスはバプテスマのあと、すぐに荒野で40日間、断食してサタンの誘惑にあった、そのとき「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある、「あなたの神である主を試してはならない」と書いてある、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある、と言って旧約聖書の言葉で答えた、ということがマタイによる福音書と、ルカによる福音書に書いてある。
ところが、福音書の中で一番古いマルコによる福音書は、荒れ野の試みにあったというところは、わずかに2節、4行しかない。えらくあっさりとしか書いていない。
マタイもルカも、イエスはバプテスマのあとにすぐに荒れ野に行ったと書いてある。マルコもバプテスマのあとすぐに。
イエスが荒れ野に行ったのは、自分から行ったのでない。霊が荒れ野に送りだした。ルカによる福音書では霊によって引き回され、と書いている。イエスの意思がどうであれ、それが父なる神の決めたことであった。イエスにとっては、どうしても荒れ野で誘惑を受けねばならなかった、ということなのかも。
イエスの歩んだ道は、初めから、生まれた時から、きびしいものだった。生まれた所は家畜小屋、そして生まれてすぐに命の危険にさらされエジプトに逃げ延びてやっと助かった。イエスの生涯は順風満帆ではなかった。明るく輝いた道ではなかった。
生まれてすぐもきびしかった。そして公生涯と言われる、30才位からの公の活動の最初が、荒れ野の誘惑だった。
荒れ野とは、何もないところ、大きな岩がごろごろ、草木もほとんどない、命のない所。イスラエルには町の郊外に出るとすぐに荒れ野があったそうだ。そして荒れ野とは、神から最も遠い所の象徴でもあった。神に敵対する勢力の済むところ。悪霊、サタンのいるところ。神の力が最も及ばないところ。そんな荒れ野にイエスは送りだされた。神殿ではなく、荒れ野に追いやられた。
この荒れ野での誘惑はイエスの生涯の中の個人的な出来事としての問題ではない。神ご自身のサタンとの戦いでもある。神がいないような、もっとも神から遠いような所にも神の力は及んでいる。神の力が及ばない所はない。それを証明するための出来事でもあったのかもしれない。
ではなぜイエスはサタンの誘惑に会わなければならなかったのか。イエスが神であるなら、神らしく、高いところで威張っていれば良かったのではなかったのか。
その答えになるようなことがヘブライ人への手紙4:14〜16に書かれています。「さて、私たちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、私たちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵にあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵のみ座に近づこうではありませんか。」
イエスがサタンの誘惑に遭われたのは、弱い私たちと共にいるため、私たちと同じところに立つため、苦しみ悩み嘆いている私たちと共にいるため、私たちの苦しみ悩みをわかるため、辛さの中にいる私たちをひとりぼっちにさせないためだったのではないでしょうか。
「こんな苦しみは経験したものにしか分からん」とか「お前に俺の苦しみが分かるはずがない」ということをよく言います。そういいながら、人は自分がひとりぼっちでいることを感じ、さらに辛くなってしまうようなことがある。しかしイエスは私たちをひとりぼっちにしないために、荒れ野の誘惑を経験されたのかもしれない。なんで私だけがこんなことになるのか、どうせ私はそんな運命なのだ、そんな不幸な星のもとに生まれてきたのだ、と言いたくなることがある。しかし、そんな時もイエスは私たちの傍らにいようとする。私たちのつらさを知ろうとする。私たちが、この苦しさは私にしかわからん、という時、しかしイエスはそんな私たちと共にいてくださる。そのための誘惑だったのかもしれない。イエスは天の上のほうで黙って見下ろしてはいない。私たちのそばに来て、苦しむ私たちと共にいてくれる。そして私たちの苦しみをわかってくれている。10節に天が裂けた、とある。神と人との境目を突き破って、イエスは人間のそばに来られた。そして私たちの側におられる。私たちの味方となった。
イエスはこの誘惑を耐え忍んだ。サタンに負けなかった。そこから逃げ出さなかった。それは私たち弱く苦しむ人間と徹底的に共にいようとしてくれているという証しでもあるのだろう。
荒れ野は私たちの現実の世界そのものでもある。試みや誘惑が多く、試練が多い。私たちを押しつぶしそうないろんな出来事がある。しかし、イエスはサタンの誘惑に勝った。勝ちつづけている。そのイエスが私たちとどこまでも共にいてくれるのだ。
どうしてこんなに苦しいのか、どうして私だけがこんなことに、どうしてどうしてと思える時、しかしそんな時でも、イエスは私たちを決して独りぼっちにはしない。そんな時にもイエスは私たちと共に居てくれる。
私たちの人生は失敗と挫折の荒れ野の人生かもしれない。避けられない誘惑も、試練もあるかも。そればっかりかも。しかし荒れ野でイエスは勝利した。イエスの勝利は私たちの勝利でもある。苦しみの中で勝利したイエスがいてくれるから、このイエスが私たちの味方だから、私たちも勝利することができる。
ヨハネ14:18「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」これがイエスの約束。荒れ野の人生はつらくきびしい。荒れ野ではない、楽な人生を送りたいと思う。こんな苦しいことは御免だ。しかし、私たちはこの人生を送るしかない。自分の人生を送るしかない。それがたとえ荒れ野でも、それが自分の人生だ。しかしどんな荒れ野でも、そこにイエスがいる。