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礼拝メッセージより
説教題:「祝福された関係」 2001年3月25日 聖書:創世記 50章15-26節
ヨセフ
■ヨセフ(族) 1.(〈ヘ〉yosep,yehosep) (1)族長ヤコブの11番目の子で,ラケルから生れた最初の子である.「ヨセフ」という名は,「主がもうひとりの子を私に加えてくださるように」と言われた「加える」の動詞〈ヘ〉ヤーサフに由来する(創30:22‐24).ヤコブが20年間ラバンのもとで仕えてから,カナンの地に帰る6年ほど前に,パダン・アラムで生れた(創31:41).ヨセフの生涯の記述は,非常に具体的で詳細に記されており,しかも全体に調和があり,まとまった形で記録されている.
ヨセフは,父ヤコブの年老いてからの子であり,しかもヤコブが愛したラケルの最初の子であったので,他の異母兄たちよりもヤコブに愛された(創37:1‐3).彼には特別に,「そでつきの長服(裾の長い晴れ着)」が与えられた.結果としてヨセフは兄たちから憎まれることになった.特に,兄たちがヨセフに仕えることになるという夢の話をしたので,ますます憎まれるようになり,ヨセフは兄たちに殺されそうになったが,長兄ルベンに助けられ,穴に投げ込まれた.しかしルベンがいない間に,他の兄たちはヨセフをイシュマエル人に売り,イシュマエル人はヨセフをエジプトに連れていった.ヨセフが17歳の時のことであった.兄たちは,ヨセフの長服を血に浸して父ヤコブのところに持っていき,ヨセフは野獣に殺されたと偽った.こうしてヨセフは,エジプトの王パロの廷臣(宮廷の役人)で,その侍従長ポティファルに売られ,奴隷となった(創37章).
ポティファルのもとでのヨセフは,主が共におられたので,そのなすすべてのことにおいて成功を収めた.彼は,ポティファルの側近に任じられ,家の財産の管理をすべてゆだねられた.しかし,ポティファルの妻のざん言により,無実の罪をきせられ,数年の間王の監獄に入れられることになった.そこでも彼は監獄の長に認められ,全囚人の監督を任された(創39章).その頃,パロの献酌官長と調理官長とがパロに対して罪を犯したために,ヨセフと同じ監獄に入れられた.彼ら2人は夢を見たが,その夢の意味をヨセフが解き明かすと,その解き明かしの通りになり,献酌官長(給仕役の長)はもとの役に戻り,調理官長(料理役の長)は木にかけられて殺された.ヨセフは,献酌官長に自分のことを思い出してくれるように願ったが,彼はヨセフのことを忘れてしまった(創40章).
それから2年の後,パロが2つの夢を見て,エジプトのすべての呪法師にその解き明かしを命じたが,解き明かすことのできるものはだれもいなかった.その時,先の献酌官長がヨセフのことを思い出し,監獄でのいきさつをパロに話した.パロはヨセフを呼び出して,その夢の解き明かしを命じた.ヨセフは,その解き明かしで示されていることは,これから神のなさろうとしていることであって,エジプト全土が7年間大豊作の恵みにあずかり,その後7年間のききんが起り,地は荒廃するというものであった.そしてヨセフは,そのききんのために,豊作の7年の間に備えをするようにパロに進言した.このことは,パロとすべての家臣たちに認められ,パロはエジプトの全地をヨセフに支配させることにした.これはヨセフが30歳の時であった.ヨセフは,オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテと結婚し,ききんがくる前に2人の子マナセとエフライムをもうけた.ヨセフは,豊作の7年間,食糧を町々に蓄えた.そして豊作の7年が終ると,7年のききんがやってきた(創41章).カナンの地にいたヤコブたちもききんにあい,穀物を買うために,ヤコブは末の子ベニヤミンを除く10人の子供たちをエジプトに遣わした.この10人は,ヨセフのところに来て,顔を地につけて伏し拝んだ.これは,ヨセフがエジプトに売られる前に見た夢の成就であった.ヨセフは,弟ベニヤミンのことで兄たちを試みた.2回目にベニヤミンが連れてこられた時,ヨセフは自分の身を明かし,彼らを赦すことを告げた.ヨセフは,自分がエジプトに売られたのは,ヤコブの家の救いのために自分が先に遣わされたのであると言い,父と共にエジプトの地に移り住むように勧めた(創42‐45章).ヤコブとその一族とはエジプトに移り,ヨセフのゆえにエジプトのパロの歓迎を受けた.そして,彼らはゴシェンの地に住むことが許され,エジプトの地で大いなる国民となるという神の約束を受けた(創46‐47章).ヨセフは,父ヤコブが死んだ時,父をミイラにし,父の約束に従ってカナンの地に行き,そこで7日間葬儀を行った.父の死後,兄たちはヨセフを恐れたが,ヨセフは兄たちに神の恵みと計画の大きさを語った.ヨセフは110歳で死んだ.そして自分の遺体をカナンの地に葬るようにとイスラエルの子らに遺言した(創50章).出エジプトの時に彼の骨はカナンの地に運ばれ,シェケムに葬られた(出13:19,ヨシ24:32).(新聖書辞典)
いさかい
ヨセフがエジプトへ行くことになったのは兄弟のいさかいが原因だった。そしてそのいさかいも、もとはと言えば父のヤコブがヨセフを大事にするということからだった。ヤコブがヨセフを大事にするのは、ヨセフの母親がヤコブが最初から好きだったラケルとの間に生まれた子どもだったからだ。そしてそもそもラケルの父親であるラバンが、ヤコブとラケルを結婚させていれば、ヤコブにはラケルとの間にしか子どもが生まれることはなかった、かもしれない。親の代のいさかいが子どもの代にまで引き継がれているかのようだ。そしてそのためにヨセフはいろいろと苦労する。ヨセフはどんな思いを持ってエジプトで過ごしたのだろう。うまくいっている時もあるし、うまくいかない時もあった。うまくいかない時、ヨセフは兄弟を憎んだのではないだろうか。あいつらのせいでこんなになってしまったと思ったのではないだろうか。あるいは兄弟だけではなく、そんな兄弟の下に生まれてきた境遇、運命を憎んだのではないだろうか。
みこころ
しかしヨセフはただ自分の運命を憎むだけではなかった。この地方に飢饉が起こったときに兄たちがエジプトへ食料を買いにやってきた時、ヨセフのことに気づかない兄たちに対してヨセフはかなり意地悪なことをする。まるで仕返しをしているかのように無理難題を突きつける。あるいは自分が仕組んで、兄たちを泥棒呼ばわりしてみたりする。多少なりとも仕返しのような気持ちはあったのではないかと思うが、しかしヨセフはただ仕返しをするだけではなかったようだ。
45章3節以下では、「ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』さあ、お兄さんたちも、弟のベニヤミンも、自分の目で見てください。ほかならぬわたしがあなたたちに言っているのです。エジプトでわたしが受けているすべての栄誉と、あなたたちが見たすべてのことを父上に話してください。そして、急いで父上をここへ連れて来てください。」」
いかんともしがたい運命といったようなものに対して、ただそれを憎むだけではなく、その中にあって神の導きを見つめる目をヨセフは持っていたということのようだ。苦しい境遇の中にあっても、そこにある神の導きを見つめる目を持っている。そこで彼は兄弟と和解する力を得ている。神がそこに働いている、実は苦しいことを通して神が導いてくれていることを知る。そこで彼は兄弟を赦す事ができたのではないかと思う。
赦し
兄たちはヨセフと和解し、ヤコブをエジプトへ連れてくる。そしてゴシェンという所に住むようになった。
しかし兄たちは、ヤコブの死後不安になる。ヨセフはヤコブが生きている間は自分たちを赦したような事を言っていたが、ヤコブが死んだからには、今度こそ本当の仕返しをするのではないか、と思うようになる。兄たちが不安になるのも無理ないという気もする。そしてもう一度ヨセフにかつての咎を赦してほしいと願う。
これを聞いたヨセフは涙を流した。一体これはどんな涙だったのだろう。ヨセフは、わたしが神に代わることができましょうか、あながたがはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの命を救うために、今日のようにしてくださったのです、と言った。神がかつての悪を善に変えた、なのに自分がその善をまた悪に変えることなでするはずがないでしょう、ということのようだ。いろんなことがあったけれども、苦しいこともいろいろあったけれども、神がそのいろんなことを善に変えてくれた、苦しいことからも神は善へと導いてくれる、というわけだ。
ヨセフは神の導きを見いだし、かつての憎しみから解放されているようだ。兄たちは、ヨセフほどには神の導きを見つけられてはいないようだ。そこに働く神があまりよく見えていない。だから彼らは不安な気持ちを持ったままでいる。和解したはずだったのに、赦されたはずだったのに兄たちには不安が残ったままだったようだ。
赦しは、相手に対してもう気にすることはない、もうそのことに縛られなくてもいい、というように相手をそのことがらから解放することでもある。しかしそれよりも、相手よりも自分自身を解放することでもあるらしい。赦された側の兄たちは依然として過去の咎に縛られたままであるが、赦した側のヨセフの方が過去のことから解放されている。もし赦していなければ、兄たちも解放されず、ヨセフ自身はもっと過去に縛られたままになっていたのではないか、と思う。赦しとは先ずは自分自身を過去から解放することなのだろう。
教会がそんな赦しと和解の場所となるようにしたい、と思う。なかなかできない、なかなか赦せないという気持ちもある。でもそう思うことは、一番に自分を過去に縛り付けているということでもあるように思う。
ガラテヤ5:1 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」