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礼拝メッセージより
説教題:「見えてますか」 2001年3月18日 聖書:マルコによる福音書 8章22-26節
盲人
「人々がひとりの盲人をイエスのところに連れてきて、触れていただきたいと願った」。この盲人は人々に連れてこられた。自分から来たのではない。多分自分ひとりでは来れなかった。
「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れだし」た。イエスは自分が手を引っ張っていっていやしの場まで自分で連れていった。そして手を当てた。
どうして障害があるのか。自分自身の罪か、先祖の罪か。弟子たちがイエスに聞いたことがヨハネによる福音書の9章に書いてある。結局弟子たちもそういう障害は罪の結果だと思っていたということなのだろう。
障害者をまわりは差別し、あるいは憐れみと軽蔑の対象として見ていた。障害は罪の結果だと思っていた。そしてそういう人達は社会のまっとうな一員とはみていなかったらしい。また家族にとってもそういう人はお荷物だったのかも。障害者がいることを知られることを嫌うということを聞く。障害者がいることを家族が一所懸命に隠すという話を聞く。それは障害者を持つ家族のことをそれだけ苦しめてきた、差別してきたということの証明でもあるように思う。今は少しは違ってきたかもしれない。しかし相変わらず障害者を区別する。養護学校とか、特殊学級なんてのがある。区別することから差別が起こるんだ、という人もいる。多分そうなんだ。障害なんて言い方自体が差別を含んでいるのかもしれない。このことをどう考えたらいいのだろうか。
弟子たちが聞いた時のイエスの返事は、神の栄光が現れるためだ、ということだった。なんというすごいことを言うんだろうか、と思う。私たちも障害を持つことを何かの因果だという風に考えているのではないかと思う。障害を持つ子どもが生まれてきた時には誰でも、どうしてこういう子が産まれてくるのかと悩むということを聞く。誰の罪なのか、と弟子たちは聞いたがそれは全く私たちの声でもあると思う。しかしイエス・キリストはそれは神の栄光が現れるためだと言う。一体どういうことなんだろうか。
顔を上げて
イエスは盲人の「両方の目」に唾をつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねた。すると盲人は見えるようになって、人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。と答えた。この「見えるようになって」という言葉は顔を上げて、とも訳せる言葉だそうだ。口語訳は「すると彼は顔を上げて言った」と訳している。きっと盲人は下の方ばかり向いていたのではないか。とにかくこの時彼は顔を上げて見た。何かを必死に見ようとしている。神経を集中して見ようとしている。顔を上げて前を見つめる人生がこの時始まったのだ。
最初の時は人が木のように、おぼろげに見えていたのが、イエスがもう一度目の上に両手をあてると、すべてのものがはっきり見えはじめた。
最初にまじまじと見つめたのはイエスだったろう。彼は顔をあげてまじまじとイエスを見つめた。イエスによって見えるようにしてもらった目で。イエスは「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。
弟子たち
イエスは二度も手を当てた。二度といわず何度でも手を当ててもらったほうがいいような者がいる。その代表が弟子たち。
弟子たちはイエスのうわさが広がり、イエスの人気が出てくると、イエスに従うことを喜び、誇りに思っていたらしい。その割にはイエスのことがわかっていない。見えていない。弟子たちこそもう一度イエスによって手を当ててもらわねばならない。それはイエスをはっきり見るため、イエスが何を考えているかをはっきり知るため。
弟子たちは、お師匠の人気が出てくるとそれだけ自分たちも偉くなったような気分になったらしい。だれが一番偉いか、ともめていたことも書かれている。他の人よりも少しでも上に立ちたい、というのは人間の本性なんだろうか。人よりもいい成績をとり、少しでも知識を多くして、また少しでも金持ちになり、有名になり、いわゆる偉くなりたいと思う。人と比べることで自分がいいとか、悪いとか判断する。生まれながらの性質なのか、あるいはもって生まれた罪なのか。
自分を周りの人と比べることをしなければ、人生はどんなに楽しいだろうと思う。自分は自分なんだから、自分らしく生きればそれでいいはずなのに、どうしてか、なかなかそうできない。
僕自身も小さい時から親からも親戚の大人からも、あそこの子はできるのにとか、だれでもやっているのに、どうしてお前はできないのか、しないのか、とか、あるいは逆に、あの子はできないのにおまえはできた、とか言われ続けてきた。そして気がついたらいつも周りと自分とを比較していた。なんとか人よりも高くありたい、逆にいえば、低くいたくない、そうしないと認めてもらえないような気持ちがある。だからいらぬ気苦労ばかり。いつも周りより上か下かということばかり考えていて一喜一憂していた。弟子たちが誰が一番偉いかでもめた気持ちもよく分かるような気がする。
今は受験シーズンだが、あの子はどこそこの進学校に合格したから優秀だ、というような声を聞くことが多い。そういうのって優秀なのかなあ、なんて思いながら聞いている。そんなに進学校に行くことがいいことなのかなあ、なんて思っている。
手当て
ところがイエスは人の上に立つような道を歩いていたのではない。イエスは人に仕える道を歩んでいた。十字架への道を。
弟子たちはそのイエスの姿がよく見えていなかったようだ。そのことが見えるようになるために、弟子たちこそイエスに手をあててもらわねばならないように思う。
では私たちはどうなのだろうか。しっかりと見えているのだろうか。イエスのことがちゃんと見えているだろうか。私たちも弟子たちと同じように見えていないかもしれない。私たちも弟子たちと同じように相変わらず誰が一番かということで争っているのではないか。そしてイエスの進み姿をすっかりと見失ってしまってはいないだろうか。
イエスが目指していたものを教会が自分が目指しているのか。イエスの歩んだ姿が見えているだろうか。イエスのように仕えるための道を教会も自分も歩いているだろうか。そう思うとなんとも心許ない。イエスは人に仕えるために下へ下へと進んでいる。私たちはどうなのだろうか。イエスの後をついて人に仕える道を進んでいるだろうか。それとも人の上に立とうとして、人よりも上にいようとして上へ上へという道を進んでいるのだろうか。私こそこの盲人と同じように手を当ててもらわねばならないように思う。イエスの真の姿が見えるようにしてもらわねばならないように思う。
イエスのことをどれほど見ているか、どれほど真剣に見ているのか。ぼんやりとしか見ていないのではないか。もの盲人は一度手を置いて貰ってから人が木のように見えると言って、もう一度手を当ててもらってはっきり見えるようにしてもらっている。私たちはイエスをはっきりと見ているだろうか。はっきりと見えないのに見えたような気になっているのかもしれない。イエスを木のようにしか見ていないのかもしれない。はっきり見えるように、イエスに手を当ててもらわねば。そして顔を上げて、見えるようになってイエスを見続けたい。
見える
同時にまたいろんなものを見たい。この盲人が最初に人を見たように、人間とは何なのか、そのことを見ていきたい。神を見ようとする、イエスを見ようとする、自分を見ないで神を見ようとすることがある。
ちょっと話は違うが「私を見ないで、キリストを見てください」という歌があった。昔は好きでよく聞いていた。駄目な私のことなんか見ないで神様のことを見て欲しい、と思う気持ちは今でもある。でも最近そんなこと可能なのだろうか、と思うようになってきた。
神というものを形にして、これが神です、という風にできれば見せることもできるが、神はそういうふうに見せることはできない。それは風を見せるということ似ているような気がする。風もそれ自体は見えない。でも木や草が揺れることで風が吹いていることが分かる。風だけを見ることはできない。木や草がなびいているのを見ないで、風を見ることはできない。
私を見ないでキリストを見てください、という気持ちは良く分かる。こんな駄目な私は見ないでキリストを見てほしい、と思う。私は証にならないから。躓きにしかならないと思うから。そんな風に思っているから、私は見ないでキリストを見てくださいという気持ちになる。だから自分がクリスチャンであること、教会に通っていることをあまり知られたくないと思う。
でも私を見せないでキリストを見せることは多分できない。私たちを見せないでキリストを知らせることは多分できない。私たちを通してでしか誰にもキリストを知らせることはできない。
私たちはそんな立派なクリスチャンじゃないから自分のことは見せたくないなんて思う。でも私たちが伝えるのは立派な私たちではない。神を、キリストを伝えるのだ。だから私たちが立派かどうかなんてのは二の次、そんなのはどうでもいいんだ。神の偉大さは、私たちが立派かどうかにかかわりない。
私たちはどうでもいいようなつまらない人間なんだ。きっと。牧師なんてその最たる者。つまらない人間が牧師をしているのが教会。つまらない人間を牧師にしていることこそがすごい事。それこそが神の業なんだ。きっと。
人間がどれほどつまらないかを分かることがまた大事なことなんだ。自分が駄目な人間だと思うことはいいこと、大事なこと。その時こそ、こんな私のためにイエスは十字架にかかって下さったことを感謝できるんだろう。こんな私のことを神が大事に思っていてくれていることを思い出すべき時はそんな時かもしれない。自分がどんなにつまらない存在か分からないと、神の愛の大きさは分からない。
自分のこともまわりの人のことも、そして神のことも、キリストのことも見えているんだろうか。何が見えているんだろうか。イエスは見えるか、と聞かなかった。何が見えるかと聞かれた。何が見えるかが問題なんだ。
私たちは見えているのだろうか。見えていなければ見えるようにしていただこう。イエスに触って頂いて、自分のこと、隣人のことが見えるように、神が見えるようにして頂こう。
神さま私たちの目を見えるようにしてください。自分のこと隣人のこと、そしてあなたのことを見えるようにしてください。アーメン。