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礼拝メッセージより
説教題:「祝福」 2001年3月4日 聖書:創世記 11章31節-12章9節
新天地
新しい土地へ行くということは大変なことだ。知らないところへ行くという不安もある。それと同時に、今までいたところから離れなければならないということでもある。それまで持っていたいろんなつながり、人間的な関係もあるだろうが、そんなつながりを切っていかないといけない。今ならば少々離れてもすぐに連絡も取れるし、会いに行くことだってできるが、旧約聖書の時代には電話もないし、メールを送ることもできない。一度別のところへ行ってしまうともう二度と会えないかもしれいない、というような状況だったのではないかと思う。
またそれまで築いてきた生活の基盤をなくすようなものでもある。新しい土地で新たに基盤を作り直さないといけないわけだ。大きな木を移動させるときには根っこから掘って、その根を新しい場所の大きな穴に埋め直すことをするが、新しい土地へ行くということは、歩いて別のところへ行くだけではなく、大きな根っこを植え直すような大変ことだろう。
約束の地
アブラムは神から、わたしが示す地へ行くようにという命令を受ける。でもどこが示す地なのか、ということはまだ分かってはいない。いろんな不安がある、その上に行く先がハッキリしないうちに出発しなければいけないのだ。落ち着く先が分かっていればそこでどういう生活が始まるかということもある程度は想像できる。しかしそれができないわけだ。そうとうな心配があったに違いないと思う。そこへ自分の妻と財産と、そして甥と一緒に出発する。
いろんな反対もあったのではないかと思う。アブラム自身の中にも多くの心配があったことだろう。
祝福
神の命令はただ命令だけではない。ただ行け、というだけではない。
命令に祝福の約束が続く。わたしが示す地に行けというのは、ただ今いるところを捨てて何もかもなくして行けということではない。神の命令だから絶対に逆らえないからそうしろというのでもない。神の命令に逆らったら何が起こるか分からない、だから命令通りにしろ、というのでもない。
祝福がそこにあるから出ていけ、といのだ。私の命令にしたがって出ていったならば、命令に従ったご褒美に祝福するというのではない。何もないところへ出ていけといっているのではない。祝福のあるところへ行け、と言ってるのだ。おまえを祝福すると私が決めた、だから生きなさいというのだ。あなたを大いなる国民にし、祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるようにする、だから私の示す地に生きなさいという。あなたを祝福の源とするように私はもう決めた、もうそうすることに私は決めたのだ、ということだ。
そうすると私は決めた、だからわたしの示す地に行きなさい、というだの。
どうしてアブラムを祝福するのか。その理由はない。神がそうしたから、としか言いようがない。
約束
また神の祝福の約束は、「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」というものだった。
これを見るとアブラムを祝福するのはアブラムだけにいい思いをさせようとするという祝福ではない。アブラムを祝福することですべての氏族を祝福に入れるというものだ。
出発
アブラムはこの神の祝福の約束を聞いて出発した。妻のサライと甥のロトと財産を全部持って出発してカナンの地方へ、今のイスラエルの地方へと向かっていった。
そしてシケムというところのモレの樫の木まで来た。そこはカナン人たちの宗教活動が行われていた所だそうだ。つまりアブラムは異なる神を礼拝する民の所へ行った訳だ。そしてそこで神はこの土地をあなたの子孫に与えるというのだ。
神の命令に従って行った先が、異教の神々を礼拝する民のまっただ中であったということだ。そこはパラダイスではなかった。そこでアブラムはどんなことを考えたのだろうか。祝福がどこにあるのかという思いが頭をよぎったのではないかと想像する。
しかしアブラムはそこで祭壇を築き、主の御名を呼んだという。きっといろんな不安があっただろう。想像していたものとは全然違うという厳しい現実があったかもしれない。しかしそこでアブラムは主の名を呼んだのだ。神に祈った。
その後にもいろんな大変なことも経験する。神の約束はなんだったのかというような思いにもなったのではないかと思う。しかし神の約束は変わってはいない。神の祝福は依然としてそこにある。
アブラハムの子孫
そしてアブラハムの子孫とされ、アブラハムに約束された祝福に入れられた人たちのことが新約聖書に出てくる。
18年間サタンに縛られていたが、安息日にイエスによって束縛から解放された女の人はアブラハムの娘と言われている。
また徴税人の頭として働いていて、みんなから嫌われていたザアカイもアブラハムの子と言われている。
誰からも嫌われて、のけものにされて、一人前にも見られていなかった、けれどもイエスに呼びかけられた。彼らはアブラハムの子孫としてアブラハムの祝福に入れられたのだ。
応答
私たちも厳しい現実の中に生きている。祝福に入れられたといっても一体何処が祝福なのかと思うようなことも多い。神に聞いて従ったのにどうしてこんなのだ、と思うようなこともある。しかし神の祝福は変わらない。私たちが疑ったり信じなかったりするときでも神の祝福は変わらない。
私たちが何かを持っているとか何かが出来るとかいうことには全く関わりなく神が一方的に宣言される祝福に私たちもきっと招かれている。だからそこで私たちも神に呼びかけに応えて従っていきたいと思う。悩んだり、疑ったりしながら、そこで神から聞いていきたいと思う。