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礼拝メッセージより
説教題:「受胎告知」 2000年12月10日 聖書:ルカによる福音書 1章26-38節
しんどい
いい説教ができない、という思いがずっと心の中にある。こんな自分では駄目ではないかという不安がある。だから説教の準備に向かうにも重い心を引きずって、といったようなところがある。それでついつい後回しにしてしまい、いつのまにか週末になってしまう。自分で自分を苦しめているようなものだ。説教だけに専念できたらこんなことはないに違いない、なんて思うこともあるが、なかなかそうもいかない。仮にそういう状況になったとしても、すんなりと説教が出来るという自信もないけれども。
牧師でいることがとても重荷に感じることがある。こんなに人見知りするのに、そんな人間には向いていないんじゃないかと思う。もっと社交的な、話しが好きな、人に会うのが好きな人間だったらよかったのに、なんて思う。
あるいは嬉しいことが次々と起こってくれば、それはみんなが喜んで教会に来ることであり、みんながそれぞれの賜物を活かして喜んで奉仕して、新しい人がどんどん礼拝に来て、そのことをみんなで喜べて、その人たちが続けて来て、そういうふうになって教会員もどんどん増えて、教会の財政も豊かになって、いれば自信を持って楽しく説教できるのかもしれないと思う。でもなかなかそうもいかない。現実は厳しい。
そんな中で説教をし続けるのはなかなかしんどい。そんな気持ちで牧師でいることはなかなかしんどい。
どうして
聖書の中にもしんどいことを背負わされた人間が出てくる。その一人がイエス・キリストの母となったマリアだ。マリアは「ナザレというガリラヤの町」に住んでいた。ここは田舎の町だったようだ。マリアは田舎の名もない少女だったようだ。
そのマリアに天使が現れる。そしてイエス・キリストを身ごもることを告げる。
マリアはヨセフの許嫁であった。このヨセフはダビデの家系であった。ユダヤ人たちはキリストはダビデの家系に生まれると考えていた。しかしイエスはヨセフの子としてではなく、聖霊によってみごもったと聖書は記している。
天使ガブリエルがマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言う。マリアはこれを聞いて戸惑った。なぜか、だれでも突然天使が現れればびっくりするだろうが、マリアが胸騒ぎを起こしたのは、一体天使が自分のところに何をしにきたのか、なんでこんな私のところに来たのか、そんな思いがあったからではないか。
そしてガブリエルが「おめでとう、恵まれた方」と言うのを聞いても何のことやらわからなかった。そんなこと言われるような覚えはないし、さほど恵まれているとも思っていなかったのかもしれない。
そこで天使は「恐れることはない」と告げる。そして・・・・
マリアは「どうしてそのようなことがありえましょう」と答える。うそでしょう、ばかいってんじゃありませんよ、そんなことあるわけないでしょう、それにその子がいと高き方の子だなんて、わたしが神の子でも産むなんて笑わさないでくれ、というところか。まだ結婚していないのに、どうして子どもが生まれるのか、ということかもしれない。
けれどもそれよりもどうして私を神が選んだのか、どうして私なのか、なにも特別なものなど持っていない、特別優れた人間でもない、特別地位の高い人間でもない、特別高貴な人間でもない、特別敬虔な人間でもない、こんな人間がどうして神の子を産まないといけないのか、そんな気持ちだったのではないか。
何でも出来る
「神に出来ないことは何一つない」と天使は答える。
神にはなんでもできると聞くと、神は私の願いをなんでも叶えることができるのではないか、できるはずだ、そんな風に考えてしまう。もっと頭を良くして、もっと美人になって、もっと金持ちになって、まわりの人をもっといい人にしてくれて、憎らしい奴をやっつけてくれて、などなど。しかし神の全能とはそんなことではないらしい。私たちの思いどおりにすることが神の全能ではない。そうではなく、ガリラヤの一人の処女を選び神の子の母とするというような、人間ではとうてい考えられないような、人間の思いをはるかに超えた不思議なことをすること、それこそが神の全能の意味である。原文では「神にとっては全ての言葉は不可能なことはない」つまり神はその言葉を行えないことはない、神がそうしようと決めたことで出来ないことは何もない、ということのようだ。
つまり神が全能であるということは、神が神の願い通りにすることができる、神が最もいい、と思うことを行うことが出来るという意味であって、神が私たちの願いどおりにして何でもしてくれるという意味ではない。神にとっての最善は私たちが願い求めることとは必ずしも同じではないだろう。ということは神が私たちの願い通りにしてくれないからといっても、それで神から見放されているとは限らないということだ。私たちの願い通りにいかないという方法で神が最善を行っているかもしれない。そしてきっと神は私たちに最善を行ってくれているのだ。
重大事
しかし、マリアにとって子を宿すということはとてつもなく大変な事態だっただろう。独身の女性が妊娠することは今でも大変なこと。当時はもっともっと大変だったであろう。
だいたいこういうことが起こると周りのものはその理由を十分確かめないであらぬうわさを流すようなことが多い。世間の風当たりは当然強く、後ろ指を指されるようになることが十分に考えられる。フィアンセのヨセフが同じように白い目で見られるという心配もあったかもしれない。婚約も解消されることも十分考えられる。あるいはこの時マリアはひとつひとつのことを冷静に考える余裕もなかったのかもしれない。それはマリアにとってとても負いきれないような事柄だったに違いない。牧師が説教で苦しむことよりはるかに大変な事柄だろう。
マリアにとって未知の世界が始まろうとしている。もちろん不安も恐れもあったであろう。しかしマリアはそのことも受け入れていこうとしている。「お言葉通りこの身に成りますように」マリアが身ごもったことは聖霊の働きであったと言う。しかしマリアがそのことを受け入れることができたのもまさに聖霊の働きがあったからこそであろう。神が共にいたから、そしてずっと共にいるこてくれることが分かったからこそこの大変な事柄をそのまま受け止めることが出来たのではないか。
特にマリアが信仰深かったからこそそうできたというわけではあるまい。マリアが理想的な女性というわけでもあるまい。マルコによる福音書を見るとマリアは何人もの子どもを生んで育てたおっかさんだったようだし、イエスが弟子たちを引き連れて伝道を始めるとわが子の気がおかしくなったのだと思って連れ戻しにくるような母だった。多分マリアは聖人でも聖母でもなかったであろう。特別私たちと変わったところもない普通の人間であったのだろう。疑ったり、恐れたり、不信仰になったりするような普通の人間であったのだろう。
特別視
しかしそんな普通の人間であるマリアを神は選ばれた。このマリアを特別に選ばれた。しかし神はマリアだけを特別に見ているのではなく、マリアと同じように神は私たちひとりひとりを特別に見ている、と聖書は告げる。
聖書のいろいろな出来事の中で、本当にそんなことがあるんだろうか、と思うことがいっぱいある。いろんな奇跡のことや、えらく信仰深い話があったりする。しかしそれ以上に信じられないと思うことは、神がわたしの事を特別に見ているということ。一人一人を大事に思っているということ。「どうしてそんなことが」と思う。どうして神がいちいち私ひとりのために、特別に配慮なんかするもんか。こんなだらしない、駄目な私のことなんかそんなに思ってる訳がないと思う。
もっと立派になれば、立派な信仰を持てば、あるいは神が振り向いてくれるかもしれないと思う。だから何にもない私なんかのことをそんなに大事に思っているわけがない。そんなに思っている。なんの取り柄もない、誰からも相手をされない私のことを神が真面目に相手するはずがない。私たちは勝手にそう思ってため息ばかりついている。
しかしこんな言葉をみたことがある。
世界中が見捨てた所を神は見つづけている。人間の考えではもっとも神から遠いと思われる所に神はいる。まさかここに奇蹟はおこらないだろうと思われる所で神は奇蹟を起こす。
人間が失われたというところで神は見いだしたという。
人間が裁かれたというところで神は救われたと言う。
人間がそんなことではだめだ、こんな自分ではだめだというところで、神はいやそでいい、お前のままでいい、そのままでいい言う。
人間が投げやりな気持ちからそんなこと起こるわけがないと思い、もう諦めたと思うところに、神は愛のこもった目を向ける。
うっそー
クリスマスは、そんな信じられないようなことが起こったとき。こんな私を神はじっと見つめていてくれ、こんな私のために神は片時も離れず私の傍らにいてくれる。それを知ること、それがクリスマス、それが私のクリスマス。
おめでとう、主が共におられます。これこそがクリスマスのメッセージである。主が、神が共にいる。私たちが気付く前に、私たちが信じるより前に、主が共にいる。気付いている時だけではなく、信じているときだけではなく、いつも神が共にいる。神の方が私たちの方へ近づいてくるから、神が私たちと共にいようと決意したからだ。
恐れ
マリアは恐れた。しかしその恐れを持ちつつ、言葉通りになりますように、と言ったのだろう。そしてそこに神の業は起こっている。恐れるな、と天使に言われるような恐れを持ったマリアに神の業が起こったのだ。私たちは恐れを取り除くことの方に関心を持ちすぎているのかもしれない。信じて祈るところに奇跡が起こるのだ、なんて聞くと疑い恐れを抱くことが悪いことであり、全く疑わないこと、全く恐れないことが優れたことということになる。でも果たしてそうなのか。神はそんな全く恐れず全く疑わない人のことだけを大事にするのか。そんなことはない。恐れがあるかどうかは大した問題ではない。恐れを持ったままでも、お言葉通りになるように、と思えるかどうか。恐れをもったままでも神が最善を行ってくれることを信じているかどうか、その神に任せるかどうかが問題だ。
どうして
どうしてそんなことがありえましょう、とマリアは言った。どうして私がそんなことできるでしょう、と言うのは私たちの決まり文句でもある。私にそんなことが起こるはずがない、私にそんなことができるはずがない、今の私には無理だ、まだその時でない、と私たちは思う。そうやって私たちは自分自身で何もかもできなくしてしまう。でも神がそうすると言われたならばそれはもうその時が来たと言うことだ。あなたがするのだ、今のあなたにそれをしてもらう、と神に言われているのに、私にはできない、私だとしても、まだ出来ない、と思う。しかしそう思うことで私たちは自分の務めを拒否し、神を拒否し、神の恵みを拒否してしまっているのかもしれない。
何かをするようにと頼まれることはしんどいことだし面倒なことだ。神からの務めもしんどいことかもしれない。そんなこともある。しかししんどい面倒なことをすることから喜びが生まれるのだろう。自分がそこにいることの意味を、生きていること生かされていることの意味を知ることが出来る。何かをすることで、そこに喜びが生まれる。自分の能力、賜物を活かすことはしんどい面倒なことだ。しかし誰かのために自分に与えられているその賜物を活用することで私たちは喜びを得るのだろう。
与える
受けるよりも与える方が幸いである、とイエスは語ったそうだ。与えることは自分が損をすることである。与えることは自分が疲れることである。自分の持ち物が減ってしまうことである。でもそこには与えないと得られない喜びがある。与える以上の恵みがある。だから与えることは実は恵みなのだ。分けることは恵みなのだ。恵みがないというのは、実は一所懸命に自分のものを抱え込んでいるからかもしれないと思う。
イエスは私たちにも与えるものになるようにと言われているのではないか。持ち物を、賜物を、そして愛を与えるようにしなさいと言われているのではないか。しかしそれは私たちのいやなことを無理強いさせているのではなくて、そのことが一番の喜びだから、それが一番の恵みだからなのだと思う。
イエスは自分の命さえも与えた。クリスマス、それはお言葉通りこの身になりますように、と自分自身を神に捧げる時でもあるのだと思う。そして神が自分を何に用いようとされているかを聞いていくときでもあるのだと思う。