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礼拝メッセージより
説教題:「ヨハネの誕生」 2000年12月3日 聖書:ルカによる福音書 1章5-25、57-66節
祭司
ヨハネの父親となったザカリヤは祭司。民を代表して香をたくつとめがある。聖所では何が起こるかわからない。未知との遭遇、神との遭遇の可能性がある。そこで気絶するなどして出て来れなくなることも考えられていた。そこで聖所に入るときは足にロープをつけていたという話を聞いたことがある。倒れたときにはそのロープを引っ張って引きずり出すために。他の者が聖所に入るわけにはいかないから。そうすると死んでしまうかもしれない、と考えられていたそうだ。
二万人以上の祭司が24組に分けられていたという。つまり各組には1000人近い祭司。一組には年に2度、1週間の務めがあたえられて、その時にはくじをひいて務めについた。最も大切な務めは香をたき祈ることだった。
ザカリアのつとめはその香をたき祈ることだった。民のために民を代表して祈ることが彼のつとめだった。
そしてその務めについていたときに、天使が現れザカリアに対して、あなたの願いは聞き入れられた、と伝えたのだ。
ザカリヤとエリサベトは年を取っていたという。しかし子どもがなかった。当時のユダヤの地方では、子どもがあることは祝福されていることと考えられていた。だから子どもがないことは祝福されてないことでもあった。彼らは子どもがないという負い目を感じながら生きていたことだろう。だから子どもが生まれるということはとても大きな喜びだったに違いない。
聖所で天使と遭遇したザカリヤは不安になり恐怖の念に襲われたという。しかしこれはザカリヤが不信仰な人だからではない。ザカリヤもエリサベトも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころのない夫婦だった。またザカリヤは自分たちに子どもが生まれると聞いても、すぐには信じられなかった。どれくらいの歳だったのだろうか。創世記に出てくる、歳を取っていたアブラハムとサラが、子どもが生まれると聞かされて信じなかったのとよく似ている。違うのはザカリヤは信じなかったので話すことができなくなってしまったことだ。
ザカリアは何によってわたしはそれを知ることができるでしょうか、と天使のガブリエルに問いかける。それに対する答えは見あたらない。あるとすればザカリアの口が利けなくなったということぐらいだ。口が利けなくなることで彼に子どもが生まれるということ、預言者となる子どもが生まれるということを知ることが出来るということかもしれない。そうすると口が利けなくなるということは、天使の言葉を信じかなった罰としてそうなったということでなく、この言葉を信じるようになるためにそうされたということなのかもしれない。
天使の言葉通り、エリサベトは身ごもる。エリサベトは主が自分に目を留めて、恥を取り去ってくださったと喜ぶ。子どもがないことで辛い思いをしていたということだろう。
喜び
ヨハネの誕生についての天使の説明、それはザカリアにとっての喜びとなり、楽しみとなるということ、それだけではなく、多くの人もその誕生を喜ぶという。そしてさらに、ヨハネは主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒と強い酒を飲まず、母の胎にいるときから聖霊に満たされている。そしてイスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。民を神のもとへ連れ戻すということだ。
ぶどう酒と強い酒を飲まないとあるが、これは、旧約聖書に出て来るナジル人の誓いである。旧約聖書には、神に身を捧げたナジル人というのがいた。サムソンやサムエルがそうである。彼らは、生まれる前に、既に母親がナジル人にすると、神に誓いをして生まれてきた子である。
エリサベツの場合、生まれて来た子をナジル人にするという誓願は記されていないが、あるいはあったのかも知れない。このナジル人の特徴は、髪の毛を切らないということと、ぶどう酒などを飲まないということであった。
「ぶどう酒や強い酒を飲まない」というのは、酒を飲むと酔っ払うから、というよりは、農耕文化の拒否らしい。ぶどう酒は勿論ぶどうから作り、強い酒というのは、麦やりんごなどから作ったもので、いずれも農耕文化の産みだしたものである。ナジル人が、どうして農耕文化を拒否したかと言うと、イスラエルがカナンの偶像礼拝によって罪を犯したのは、バアルなど農耕文化の神々を崇拝したから。ナジル人は、この農耕文化が唯一の神から背かせるものだ、と考えたのである。そこで、彼らは、敢えて農耕文化の産みだしたものを拒否して、純粋な信仰を守ろうとした。
ヨハネは、大きくなって、荒野に住み、「らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野密とを食物としていた」と言われているが、これもすべて農耕文化を拒否し、唯一の真の神に対する信仰を守ろうとすることであるようだ。つまりヨハネは、そのようなナジル人として、純粋な神信仰を求める者である、というのである。
そしてヨハネが成人してから、彼は民に向かって悔い改めよ、と宣べ伝えた。つまり神の方を向くようにと伝えていった。自分の事ばかりを考えている、自分だけ良ければそれでいいんだと思っているような者に向かって、神を見なさい、神の方に向き直りなさいと言ったのだ。神を見つつ自分のことを見なさい、それこそが人間の本来の生き方だということだろう。
誕生
エリサベトが子どもを産むということで近所の人も親類も喜んだ。そして八日目になり割礼を施し、名前を付ける時がやってきた。
人々は父親と同じようにザカリヤという名にしようとした、という。そうする習慣があったということだろうか。ところがエリサベトがヨハネにするのだと言い張った。そうしなければならない、と主張したという。実の親がそうすると言うんだから、どうしてヨハネなのかと聞けばいいのにと思うが、親類の中にはそんな名前の者はいない、と反論する。人々は母親が頑なにヨハネだと主張するので、今度は口の利けない父親にも尋ねる。そうすると父親は字を書く板を出させて、その名はヨハネ、と書いたと言う。そこで人々は驚いた。一体何に驚いたのだろう。きっとそれは、好きこのんでわざわざ親類にない名前をつけようとしているということでもあるだろう。しかしそれよりも、夫婦が確信をもってヨハネだと主張する何かを持っているということに対して驚いたのだろう。この夫婦にそうさせる何かがあったのだということを周りの人たちも感じ取って驚いたのではないか。そこにただならぬものを、つまりそれは神の不思議な導き、神の働きが二人にあったということを実はこの時初めて感じたのではないかと思う。神がエリサベトを大いに慈しまれて子どもを与えてくださった、と言って集まっていた人たちだったのだろうと思う。そのことを口にしながらいっしょに喜び集まってきていた人たちだっただろう。でも二人がヨハネだと主張する姿を見て初めて、本当にすごい神の働きがあったのだと思ったのではないか。
その時ゼカリヤは話せるようになって神を讃美し始めたと言う。ちょっとタイミング良すぎって気もしないでもない。
願い
最初に天使はザカリアに対してあなたの願いは聞かれたと言った。ザカリアの願いとは何だったのか。彼にとっての願いは子どもが与えられるということだったのだろう。ところがそのことを告げられたザカリアはそのことが信じられなかったというのだ。願いがかなったと告げられた途端にそのことが信じられないと言うちょっと皮肉なことになってしまったのだ。信じられなかったけれども、やはり聞かれたのだ。
しかもただ子どもが欲しいという願いが聞かれただけではなくて、そのヨハネは、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる、彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する、というとてつもない務めを果たすために生まれて来るというのだ。
自分たちの民を神のもとへ帰らせるために生まれて来るというのだ。ザカリアの祈っていた以上のものを神はそこに用意されているということなのではないかと思う。
私たちは何を願い何を祈るのか。私たちもいろんなことを望みいろんな事を祈る。しかしその背後で神は私たちの願い以上のものを、私たちにとって最善のものを用意してくれているのだろう。私たちがびっくりするような、恐れを持ってしまうようなすごいものを神は用意して待ってくれているのだ、と思う。きっと私たちはそんな神の大きな計画の中に生かされているのだ。