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礼拝メッセージより
説教題:「新天新地」 2000年11月26日 聖書:ヨハネの黙示録 21章1-8節
新しい
最後の時、全てが新しくなるという。天も地もあたらくなるというのだ。それってどういうことなのだろう。ほとんど想像もできない。しかし新しいエルサレムというようなことは旧約聖書の中にも出てくるそうだ。苦しみの中にある者にとって、その苦しみが過ぎ去る新しい世界をが来るということは希望を抱かせるだろう。
希望
未来の先取りをすることで今を生きる力を得る。未来の祝福を知ることで今の苦しみを乗り切る力を得ることが出来る。
見えるもの、見えないもの
見えるものに目を奪われるのが現実。しかし目に見えないものによってこの世は支えられている、それを知ることが信仰。信仰の目は肉体の目には見えないものをも見ることが出来る。
大きな苦しみを前にして私たちは圧倒されてしまう。どうしようもない無力感に押しつぶされそうになる。しかしそんな時にも、信仰の目は神を見つめることができる。神が私たちを支えていること、この世の全てを支えていること、そしてその時には、終末には新しい天と地がやってくることを教えてくれる。希望を与えてくれる。希望を持つことで生きる力が生まれる。苦しみの中にも生きる力が生まれる。
新しく
その時、全てが新しくなると言う。ほとんど想像も出来ないようなことだ。私たちは自分では新しくできないいろいろなものを持って生きている。捨てたくても捨てられないいろいろなものを抱えたまま生きている。醜い思い、嫌らしいもの、自分でも大嫌いな自分を持っている。しかし終末には、最後の時には全てが新しくなると言うのだ。
悲しみと苦しみのある時はやがて過ぎ去り、すべてが新しくなるというのだ。もはや死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない、そんな新しいものがやってくるという。そしてそれは神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる、からだという。そして神は自ら人と共にいて、その神となるからだというのだ。
新しいエルサレム
その新しい天地を新しいエルサレムである、と呼んでいる。この新しいエルサレムは夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて神のものと離れ、展から下ってくるというのだ。新しい世界が天から下ってくるという。つまりそれは神からの贈り物といったようなものである。
価なしに
渇いているものには、命の水の泉から価なしに飲ませようという。人間の努力によって勝ち取るものでもなく、優れた人間にだけご褒美として与えられるものでもなく、ただで与えるということだ。何もない何も持っていない、何も出来ない人間にも神は命の水の泉から飲ませてくださるというのだ。
成就
事は成就した、という。全ては完成したのだ。新しい天と地によって全ては完成したのだ。新しい天地は決して古くなることのない、もう過ぎ去ることのない天地なのだ。この新しいという言葉には決して古くならない新しさ、というような言葉が使われているそうだ。事が成就し全てが完成する、その新しい天地は決して古くもならず過ぎ去ることもないということだ。
おくびょう者
その後に、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、、、、などのことが出てくる。ちょっと脅しのような言葉である。臆病な者、うそをつく者、という言い方がある。当時皇帝礼拝を強要される中で、それに対して抵抗できないことを意味しているようだ。しかしそういう抵抗ができない者に対する裁きの言葉というよりも、そういう状況の中で戦い続けている者に対しての励ましの言葉なのだと思う。
黙示録では信じない者や従わない者が滅ぼされるとか第2の死が待っているというようなことを言うが、それは堕落した信徒がそうなってしまう、というようなことを言おうとしているのではなく、信仰を守り通している信徒を励ます言葉であり、何があっても神を見上げ続けて欲しいという思いの現れということのようだ。
共に
世の終わりには神が人と共に住むという。それはクリスマスのメッセージと同じだ。神が私たちと共にいる、というのだクリスマスのメッセージである。世の終わりの全てが成就し完成される時に起こる出来事は、クリスマスにおいてもう起こり始めているということだろう。神が共にいてくれるという終末の出来事はもう起こりつつある、ということなのだろう。終末はもう始まっているということのようだ。今は終末とつながっている。その時神は人の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるという。
今はまだ悲しみも嘆きも労苦もある。まだ終末ではない。しかし神が共にいてくれている。今はは終末に半分足を突っ込んでいるというようなことなのかもしれない。しかし悲しみも嘆きも労苦もある中でもやがて全てを完成される神を見上げて今を生きていこう。